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「日本の精神と日本的儒學(xué)」というテーマで幾度か出稿してきましたが、今回が最後になってしまいましたので、今まで書(shū)き溜めていた原稿をアップして終了したいと思います。
五倫と教育勅語(yǔ)
孟子の言葉をベースにした教育勅語(yǔ)は日本の精神そのものです。日々の生活の中で我々は優(yōu)しい問(wèn)題を難しくしていないでしょうか。儒學(xué)ではもっとも大事なことは両親を大切にすることだと説いています。最近の日本人はこうしたことがわかっていない人が多いと思います。両親を大切にするということは親があなたを自慢できるような人物になってほしいということなのです。言い換えれば、家の家系を大事にするということです。だから、自分を粗末にしてはいけません。そのために修身するのです。
戦後の教育が教育勅語(yǔ)を廃止してしまったので日本の精神が荒廃してしまったと言えます。教育勅語(yǔ)には父子の親、君臣の義、夫婦の別、長(zhǎng)幼の序、朋友の信の五項(xiàng)目の「五倫」があります。
父子の親
現(xiàn)代の中國(guó)においては絶対的な無(wú)條件の親への忠誠(chéng)となっています。日本では江戸時(shí)代まで寺子屋の暗記項(xiàng)目に論語(yǔ)と孝経がありました。親を愛(ài)することはとりもなおさず、目上の人や先祖を敬うことと同じです。そうすれば孟子は天下が自ずと治まるといっています。また自分も、子に大切にされる親になる努力を怠らず、他人に敬われるような年長(zhǎng)者になるべく力を盡くすことです。もちろん、妻の両親も大事にしなければならないのは當(dāng)然のことです。親を大事にすれば妻が付いてきます?!溉柿x禮智信」を妻に教えなくても、妻は本能的に夫についてくるでしょう。
親を敬うことに関しては「孝経」の冒頭にこういう言葉があります。
「身體髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始め也。身を立て道を行い、名を後世に挙げ、以て父母を顕すは孝の終り也。それ孝は親に事(つか)ふるに始まり、君に事(つか)ふるに中し、身を立つるに終る?!?/p>
親の名に恥をかかせないように努力するという考えは今の人は持っていません。今では卒業(yè)式の時(shí)に歌う「仰げば尊し」の中の「身を立て、名を挙げ」と言う文言の中にしか殘っていないのは寂しい限りです。
君臣の義
歐米や中國(guó)と違って、日本人は家庭よりも職場(chǎng)を大事にします。そういう意味では「父子の親」よりも「君臣の義」を重んじる傾向にあるでしょう。企業(yè)における対人関係の方を大事にするということですが、天皇を頂點(diǎn)とした日本の歴史的組織體制にあったのかもしれません。妻子よりも國(guó)家の方が大事であった時(shí)代がそうさせてきたのでしょう。結(jié)局、企業(yè)のために、一生懸命忠誠(chéng)を盡くしてきましたが、人間の本質(zhì)をどう理解するのかという部分が江戸時(shí)代の終焉とともに欠落してしまったといえます。妻を理解することはとりもなおさず、リーダーシップとは何かを問(wèn)うことと同じことなのです。この部分が今の日本人には欠落していると言えます。
夫婦の別
孔子がおっしゃいました?!概热·毪俗悚椁棠肖蠏Qいにくい。親切にすれば調(diào)子に乗るし、親切にしなければ恨まれる?!工长慰鬃婴窝匀~が昔の風(fēng)習(xí)だと言って片付けてしまうわけにはいきません。女性を取るに足らぬ男と一緒にして「扱いにくい」と孔子が言っているのは男女の頭の構(gòu)造が全く違うということを言っているのです。女性から見(jiàn)れば男は同じように扱いにくい存在なのです。だから、女は男とは全く違うということを認(rèn)識(shí)する必要があります。話せばわかるという感覚自體が悪女のレベルにもよりますが、全く通じないということです。だから、五倫では「夫婦の別」と言っているのです。「別」なのです。
我々は悪女と悪人の違いは五常、五倫の徳の心を持っているか否かで判斷しています。悪女は情緒的、感情的で、わがままで、自己中心、欲張り、嫉妬深いといえます。さらに噓もつきます。だが悪人ではありません。悪人を見(jiàn)分けることは難しい。悪人とは心の卑しい人間のことで、こうした人と付き合うと身ぐるみ持って行かれます。悪女は男を修める上で大事な対象なのです。
妻とは自分の嗜好だけで話をしてはいけません。彼女の関心事はあなたとは違うのです。彼女とは関心のある話題が違うという前提で、會(huì)話をしなければなりません。あなたの話題を受け入れないからと言って、彼女を無(wú)視してはならないし、彼女の考えを否定してはなりません。
妻はよく口癖のように「全く私の気持ちを理解していない」といいますが、理解しようにも、コロコロ気持ちが変わるので、男が追いついていけないのです。その挙句に、「あなたくらい自分勝手な人はいない」と言い出しますが、どっちが自分勝手なのだろうか訳がわからないのです。その時(shí)はじっと我慢しなければなりません。男は好き嫌いをせず、打算を持たず、欲を張らず、嫉妬をしない事が大事です。何度自分に言い聞かせても、妻に反論してしまう事が多いと思います。そうしたことに対して、何回でも反省しなければなりません。理不盡でも何でも、男が譲歩するのです。男と女は頭の構(gòu)造が違うのです。
長(zhǎng)幼の序、朋友の信
何もない平穏な時(shí)は君子も小人も同じですが、いざとなった時(shí)に、その人の価値が現(xiàn)れます。孔子は上に立つ者はどっしりと構(gòu)えていないといけないと言っていました。でなければ威厳が無(wú)くなると言いました。呂新吾(ろしんご)は格好良い男とは深沈厚重な男のことだと言っています。
一番優(yōu)秀な人物というのは頭のいい人ではないし、豪快な人物でもないということです。落ち著きがあって、心が定まった人が一番いいのです。身を修めて、家を斉えることによってそうした人間としての重厚さと威厳が身について行くのです。それもひとえに悪妻のおかげです。
敬うということは相手を尊んで、禮を盡くすことであり、尊敬するということです。歳相応の徳を身につけていない人に対しても敬う必要があります。そうすることによって、自らの修身にもなるのです。第三者が見(jiàn)れば、本人に対する評(píng)価が上がることになります。
「信頼」は現(xiàn)代の日本人が持っている「信頼」とは違って、どんなことがあっても、未來(lái)永劫、信用するということを意味します。最近の日本人の多くは一般的に時(shí)間の経過(guò)と狀況によってその「信頼」は変化するようです。困ったものです。
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