拡大
6月2日、週末の北鎌倉は、観光客でたいへん賑わっていた。私も北鎌倉へ、目的地は円覚寺であった。寫真は筆者提供。
(1 / 8 枚)
6月2日、週末の北鎌倉は、観光客でたいへん賑わっていた。紫陽花(あじさい)が咲く季節(jié)だからね。私も北鎌倉へ、目的地は円覚寺であった。その日は、ある歴史人物の跡をたどるという特別な思いで、円覚寺の中の松嶺院をゆっくり歩いた。松嶺院を開創(chuàng)した僧侶である廣圓明鑑禪師大拙祖能(だいせつそのう)という人物だ。不思議なことで、この數(shù)カ月間、私の頭の中には「大拙祖能」の名前が常にあった。
【その他の寫真】
円覚寺は、鎌倉幕府第八代執(zhí)権?北條時宗が宋の禪僧無學祖元を招いて開かれた。鎌倉五山の第二位にもなっている。寺地には第四十世大拙祖能の塔所「青松庵」があったと伝えられ、その中に木造の大拙祖能坐像が安置されている。
數(shù)カ月前、中國の故郷の役所に務(wù)める友人から連絡(luò)があった?!钢袊=ㄊ「V菔肖伍L楽にある霊峰寺の住持職(住職)が、南北朝時代の臨済宗の僧である大拙祖能のことである」というのだ。
史料によると、大拙祖能(1313年-1377年)は、南北朝時代の臨済宗の僧。俗姓は藤原氏。諱は祖能。道號は大拙。相模國鎌倉の出身。諡號は広円明鑑禪師。14歳で比叡山に登って出家し、延暦寺戒壇で受戒している。その後京都東福寺の雙葉宗源、鎌倉大慶寺の大川道通、円覚寺の天外志高に師事して修行。1344年に中國の元に渡って修行、千巌から印可を受けた。1358年に帰國したのちは、大拙祖能は3代將軍足利義満の帰依を受け鎌倉円覚寺?建長寺に招かれたが、これを固辭して常陸國笠間郡の楞厳寺に住した。また一説によれば帰國後は肥後(熊本県)永徳寺、鎌倉円覚寺、建長寺などの住職を務(wù)めていた。
そういえば、大拙祖能は31歳で中國へ渡り、45歳で日本に戻った。人生の壯年期を中國で過ごした。その14年間、大拙祖能は主に福州市長楽の霊峰寺で修行した。中國では「大拙和尚年譜」という史料があり、その中でも、大拙祖能が霊峰寺で修行したことが記載されている。
私は宗教と歴史について詳しくないが、600年前、日本の僧?大拙祖能がかつて私の故郷のお寺で修行したことを知り、不思議な感覚を覚えた。當時の福州は、海上シルクロードの始発港であり、唐朝と日本への海上航路は福州で活発だった。これは唐朝の中期から日本の僧がどんどん福州に上陸した理由の一つであった。
Record China
2018/6/17
Record China
2018/6/17
Record China
2018/6/17
Record China
2018/6/16
Record China
2018/6/16
ピックアップ
we`re
RecordChina
この記事のコメントを見る