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米國元國務(wù)長官のヘンリー?キッシンジャー博士(寫真)が11月29日に他界した。100歳だった。キッシンジャー博士は米中関係の改善でよく知られるが、米ソの安定共存を?qū)g現(xiàn)した立役者でもあった。
米國元國務(wù)長官のヘンリー?キッシンジャー博士が11月29日に他界した。100歳だった。博士は「現(xiàn)実主義の大家」「米國史上最も偉大な國務(wù)長官」などと呼ばれている。中國では特に、米中國交正?;蔚坤蚯肖觊_いたこともありキッシンジャー博士の評(píng)価が極めて高く、「中國人民の舊友であり良き友」などと評(píng)されている。キッシンジャー博士と親交もあった南京大學(xué)國際関係學(xué)院の朱鋒執(zhí)行院長はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて博士の成し遂げたことや人となりについて回想した。以下は朱執(zhí)行院長の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
私は米國の大學(xué)や學(xué)術(shù)交流の場でキッシンジャー博士と何度かお會(huì)いして、米國の対外政策や中米関係などの問題について意見を交換したことがある。博士は傑出した外交家、政治家で、核抑止と國際的な安全保障、米ソが競った冷戦時(shí)代とポスト冷戦時(shí)代の米國の安全保障戦略などの分野で非常に重要な役割を果たした。1969年から1974年まではニクソン政権の國家安全保障補(bǔ)佐官、1973年から1977年までは米國務(wù)長官を務(wù)めた。1973年にはベトナム戦爭の和平交渉を推進(jìn)したことで、ノーベル平和賞を受賞した。
キッシンジャー博士は優(yōu)れた國際問題學(xué)者だ。政府職を退いてからも著述を続け、特にこの30年間は執(zhí)筆活動(dòng)を熱心に行った。この3つの仕事をいずれも高いレベルでこなせた人は、非常に珍しい。
キッシンジャー博士はハーバード大學(xué)で博士課程を修了した後に、同大學(xué)にとどまって教職に就いたが、1969年は大學(xué)を離れて政界に入った。當(dāng)時(shí)は米ソ冷戦の緊張が最も高まった時(shí)期であり、雙方の核戦力は互いに「相手を確実に絶滅させられる」?fàn)顟B(tài)だった。キッシンジャー博士は対中関係の改善を進(jìn)め、そのことで國際戦略における「力の構(gòu)造」を変え、新たな「均衡」を産み出した
ベトナム戦爭を終結(jié)させる大役を全うしたことには、大きな意義があった。キッシンジャー博士は、米國が東アジア情勢(shì)に過度のエネルギーをつぎ込んではならないとの考えを示した。
キッシンジャー博士は1970年代、米ソの核軍備管理交渉に積極的で、2つの超大國が戦略的安定を形成することを強(qiáng)調(diào)した。博士はまた、23年に及ぶ中米の対抗関係の氷を砕く役割りを果たした。1990年代にポスト冷戦時(shí)代が到來すると、中米関係についてさらに深く考えるようになった。中米関係がさまざな試練に直面すると、キッシンジャー博士は「危機(jī)の管理と制御」戦略を明確に主張した。
キッシンジャー博士の學(xué)者としてのキャリアのスタートや外交官、國家安全保障擔(dān)當(dāng)補(bǔ)佐官、國務(wù)長官としての活動(dòng)の時(shí)期は、基本的にすべて冷戦時(shí)代だった。博士の戦略思想と具體的な政策は世界全體の平和や安定、繁栄を維持するために重要な貢獻(xiàn)をした。
キッシンジャー博士の主たる學(xué)術(shù)思想は1950年代から70年代にかけて形成された。米ソの超大國が、人類史初の「核の均衡」や「核の恐怖」をもたらした時(shí)代だ。博士はそんな時(shí)代にあって、「米ソ関係の管理」に重點(diǎn)を置いた、最初の単著『核兵器と対外政策』では、米ソ間が衝突しても限定的な範(fàn)囲にとどめるべきと主張した。博士はこの主張により、冷戦時(shí)代の力の均衡と相対的な安定の実現(xiàn)に大きく貢獻(xiàn)した。
さらに思想の根底から言うのなら、キッシンジャー博士は典型的な現(xiàn)実主義者だった。「利益」と「実力」を強(qiáng)調(diào)する一方でイデオロギーの役割と影響をそれほど重視せず、イデオロギーを超えて力の分化した組み合わせを見いだすことを強(qiáng)調(diào)した。これが、米中関係の推進(jìn)に力を注いだ根本的な理由だ?,F(xiàn)実主義の理論の大家として、中國には何度も來ており、中國共産黨をよく知り、中國に対して大きな偏見を持っていなかった。ここ數(shù)年は中米関係をコントロールし、中米関係を深い溝や衝突に陥らせてはならず、さらに全面的な対抗?fàn)顟B(tài)になってはならないと何度も強(qiáng)調(diào)した。
キッシンジャー博士と交流して知ったのだが、學(xué)問においても生活においても溫和な人だが、自分の思想や視點(diǎn)については頑固だった。冷戦時(shí)代が終わると米國の対外政策はより「自由國際主義」になり、人権などの価値感を輸出しようとするようになった。キッシンジャー博士は依然として現(xiàn)実主義を堅(jiān)持して、米國がイデオロギーによる過度の対抗を図ったり価値感の輸出を強(qiáng)調(diào)することにはとりわけ納得しなかった。
中國人がキッシンジャー博士のことを懐かしく思う背景には、中國人が米中関係を重視していることもある。最も重要なことは「歴史を鑑(かがみ)として未來に向う」であり、キッシンジャー博士の戦略的見識(shí)や政治の勇気、外交の知恵を継承し、発揚(yáng)することだ。
このような大物の戦略家、政策決定助言者が去ったことが、米國の対中政策の変化につながるとの懸念があるかもしれない。確かに、中米両國がいかにしてイデオロギーと政治制度の相違を乗り越え、いかにして両國國民の利益や世界の平和発展を真に最優(yōu)先するかは、まだ答えが出ていない問題だ。
「時(shí)代が英雄を作る」という言葉がある。誰もが特定の歴史的環(huán)境の産物だということだ。今日の中米関係はすでに大きな変化を遂げており、將來の安定と発展は非常に重要だ。われわれはキッシンジャー博士をたたえ、懐かしむだけなく、博士の思想から養(yǎng)分を吸収し続け、前を見続けねばならない。少なくとも私は、キッシンジャー博士の思想と英知を信じている。博士が亡くなったからといって博士の影響力がなくなることはない。
キッシンジャー博士は88歳の高齢で『中國論』という書物を出した。私はこの本を何度も読んだが、內(nèi)容がとても豊富で、古い世代の米國人學(xué)者の中國認(rèn)識(shí)が反映されている。博士は外交官時(shí)代に毛沢東、周恩來、トウ小平といった古い世代の中國の政治指導(dǎo)者と接觸し、その後何世代にもわたる中國の指導(dǎo)者に會(huì)ってきた。博士はこの書物の中で中國の政治指導(dǎo)者に対する印象を述べ、中國人の奮闘精神、民族の自強(qiáng)自立精神が絶えず続いていることを見て深い感銘を受けたと書いている。高級(jí)外交官としての中國との付き合いの高さと深さは普通の米國人とは比べものにならない。多くの米國人は中國関連の経験が乏しいために中國を理解しておらず、限定的な固定観念だけを當(dāng)てはめて中國を判斷している。
これほど長期にわたり、深く、さらに高い視座を持ち中國の指導(dǎo)者と交流できる人はいなくなるかもしれない。そういう意味では、ひとつの時(shí)代が過ぎたということになる。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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