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見知らぬ土地での失敗に僕はパニックに陥っていた。僕は離れていく香港に向かって飛び込もうとしたのだった。資料寫真。
僕はその時、20代前半。大學(xué)の春休みを利用し、香港から広州へ渡る船の中にいた。せっかくだからと景色の見える席を確保して、僕はドカッと腰かけた。しばらくすると、僕の乗っていた船が動き出す。
「動き出したか」
僕の胸が高まっていく。
「広州へは何時に著くんだったっけ」
僕は腕時計を見た。そして、驚いた。チケットの時間よりも十五分も早く船が出発しているではないか。
焦った僕はリュックを抱え、看板に飛び出していく。そして、船員にチケットを見せた。チケットを覗き込んだ船員は僕を指さし、その後手を左右に振った?!袱长欷线`う船だよ」と。
僕は「何とかならないか」と片言の英語とジェスチャーで伝える。だが、すでに船は動き出している。船員も困っていた。そうこうしているうちに、岸が離れていく。
見知らぬ土地での失敗に僕はパニックに陥っていた。僕は離れていく香港に向かって飛び込もうとしたのだった。3人の船員に僕の愚かな行動は止められ、そしてフェリーは岸へ戻り、僕を香港へ戻してくれた。皆さんの好意のお陰で、僕は予定していた船に乗ることができたのだった。
これは25年も前の話。僕にとって初めての海外一人旅だった。
大學(xué)時代の僕は長期休みに入ると一人旅をした。北は北海道から南は沖縄まで、ある時は鈍行列車で、そしてある時は愛車のスクーターに乗って出かけたものだ。
日本各地を巡った僕は、今度は海外まで足を延ばそうと考えた。行先をどこにするか迷っていた矢先に、大學(xué)の講義で好奇心をくすぐる話を聞いた。
「來年の7月に、香港がイギリスから中華人民共和國へ返還される。返還によって香港も変わっていくだろう」
香港……輝く夜景、雑多な商店街、美味しい食事という印象があった。それと同時に整備されていない地域もある危険なところというイメージも併せ持つ不思議な街だった。
大學(xué)教授の話を聞き、僕は香港に興味を持つ。まだ、インターネットも流通していない時代、情報の根源は本だった。僕は図書館から本を借りて調(diào)べてみる。知れば知るほど香港に興味がわいた。そして、その隣にある中國にも行きたいと思うようになった。
香港と內(nèi)陸では、隣同士であるにも関わらず、全く異なる文化を持つ。西洋の文化に色濃く染まった街が、異なる文化の國と一つになっていく。香港が返還される前に二つの文化を見たい……それがこの旅のきっかけだった。
大失態(tài)から始まった中國一人旅。広州へたどり著き、まずは街を歩く。僕は一目で広州に興味を持った。建物は古く、歴史が止まっているかのよう。整備されていない場所も多々見かける。當時の映畫で見る中國そのものだった。人も多く、喧噪としている街で生活する人達の服裝は質(zhì)素だった。飲食店の前で材料を洗っている調(diào)理師さんの姿には驚いた。
広州から第一に感じたのはエネルギーだ。僕の知っている日本では目にすることのない、人々や街のエネルギーだった。
僕は片言の英語しか話せない。中國語で知っているのは「シェイシェイ」と「ニーハオ」くらい。街では英語を見かけることはなく、全て中國語表記だった。どこに行って良いかも分からない僕は、ガイドブックを片手に街の人に中國の文字や建物の寫真を見せて行先を教えてもらった。
言語が分からなくてもなんとかなるものだなと思っていたが、人生はそんなに甘くない。食は広州にあり……広州を調(diào)べると必ず出てきた言葉。そんな広州には、様々な材料を使った料理があるという。その中でも、ヘビ料理で有名な店を僕は訪ねた。
歴史を感じさせる色褪せた建物の入口にはヘビが並ぶ。席についた僕はメニューを見る。中國語の読めない僕は、その料理の想像もできない。メニュー表を適當に指さし三品頼む。注文した時に、女性店員が笑ったような気がした。なぜ笑われたんだろうかと考えた僕は、出てきた料理を見てその理由を理解した。運ばれてきたのはヘビを焼いたお肉と、ヘビを焼いたらしいお肉、ヘビ肉のチャーハンだった。なんと、同じような料理しか頼んでいなかったのだった。
その上、一品ごとの量が多い。とても一人で完食できる量ではなかった。皿に多くの食材を殘し、少し気恥ずかしい思いをしながらその店を後にした。
二日間の広州旅も終わりが近づく。その日のお晝には広九直通列車に乗って香港に帰ることになっていた。
帰路は往路のような失敗はしないと、朝から乗車駅を確認する。広州駅周辺には多くの人が集まって、混雑していた。後で調(diào)べると、働き口を見つけるために地方から出てきた人たちだということを知る。広州のエネルギーの源を見た気がした。
あれから僕は中國へ行く機會はない?,F(xiàn)在の広州の畫像を見ると、以前とは比べ物にならないほど、都會的な街に様変わりしていた。
見た目は変化したが、広州のエネルギーは変わっていないだろうと思う。僕が一目ぼれした広州という街。また、いつか出會えることを楽しみにしている。
■原題:困る船員と焦った僕の話
■執(zhí)筆者プロフィール:鈴木 大輔(すずき だいすけ)
1975年鹿児島県奄美大島生まれ。鹿児島経済大學(xué)(現(xiàn)鹿児島國際大學(xué))社會學(xué)部卒業(yè)後、埼玉県草加市の精神科クリニックへ精神保健福祉士として入職。30歳の時に、鹿児島へUターンし、醫(yī)療機関の事務(wù)職員として勤務(wù)。大學(xué)時代は、長期休みになると國內(nèi)外問わずに旅へ出ることが好きで、大學(xué)3年時の香港と內(nèi)陸への一人旅を綴ったものが本稿である。
※本文は、第5回忘れられない中國滯在エピソード「驚きの連続だった中國滯在」(段躍中編、日本僑報社、2022年)より転載したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。
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