「設(shè)色星図」は「明代のGPS」だったとはどういうことなのか―地元専門家が紹介

中國新聞社    2023年10月22日(日) 23時(shí)30分

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明代に制作されたと推定され、現(xiàn)在は福建省莆田市博物館が所蔵する「設(shè)色星図(寫真)」は、「明代のGPS」などと呼ばれている。いったいどういうことなのか。

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明代に制作されたとされ、現(xiàn)在は福建省莆田市博物館が所蔵する「設(shè)色星図」は、「明代のGPS」などと呼ばれている。いったいどういうことなのか。そしてこの「設(shè)色星図」は、ユネスコの無形文化遺産にも登録された媽祖信仰とも深いつながりがあるという。福建省莆田市博物館の元館長で、現(xiàn)在も研究員として活動(dòng)する柯鳳梅氏はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、「設(shè)色星図」や莆田という土地の歴史的役割、さらに媽祖文化について説明した。以下は元館長の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

その他の寫真

「設(shè)色星図」は航海に欠かせない「明代のGPS」だった

福建省の莆田市博物館に所蔵されている「設(shè)色星図」は明朝末期の大型巻物式の紙本畫で、縦148センチ、橫90.4センチだ。1989年に國家一級(jí)文化財(cái)(日本の「國寶」に相當(dāng))に指定された。

全體は畫像部分、文字による説明部分、コンパス部分の3つの部分に分かれている。畫像部分の中央部は寫実的な天球上の星の図で、明確に確認(rèn)できるものだけで1400余りの星が描かれている。現(xiàn)在ではギリシャ由來の星座が世界で広く使われているが、古代中國でも星を「星官」と呼ばれるグループに分けた。それぞれの「星官」には神の側(cè)面があった。「設(shè)色星図」には288の星官が描かれている。

寫実的な星の図の周囲には、星と星が屬する「星官」の彩色畫が描かれている。北斗七星と季節(jié)に移り変わりに関係する二十八宿主座の星は赤色で描かれており、殘りの星は白黒の點(diǎn)で描かれている。そして明るい星ほど大きく描かれている。

文字の部分は、唐代かそれ以前に書かれた「歩天歌」という詩だ。この詩は計(jì)1464の星と、その星が屬する283の星官が詠み込まれている。星は季節(jié)でも分類されている。この詩を朗詠しながら星図を見ると、星のイメージが非常に生き生きをして、まるで自分が星空の中にいるような気分になる。

設(shè)色星図

コンパス部分は星を描いた丸い部分の周囲の円環(huán)だ。このコンパス部分には、24方位が記されている。中國で古い時(shí)代に制作された星の図で、このようなコンパスが添えられているものは「設(shè)色星図」だけだ。

船乗りは古い時(shí)代から、天の星を観測して船の位置を知った。「設(shè)色星図」も何らかの形で航海に関係していたに違いない?!冈O(shè)色星図」は明代の船乗りが、星を見て船の位置を知った物的証拠と言える。これが、「明代のGPS」と呼ばれる理由だ。

「設(shè)色星図」と媽祖信仰の密接なつながり

「設(shè)色星図」はかつて、莆田市內(nèi)の港の近くの天后宮にあった。天后宮とは伝統(tǒng)的な宗教施設(shè)で、「設(shè)色星図」があった天后宮を含め、媽祖(マーズー)と呼ばれる道教の女神が祭られていることが一般的だ。媽祖は航海の守り神とされる。かつての航海は、巨萬の富を得られるチャンスであると同時(shí)に危険も大きかった。そのため、福建以南の海岸地帯では媽祖信仰が昔から極めて盛んだ。そして「設(shè)色星図」の存在は、かつての航海関係者が「神頼み」によってのみ安全を手に入れようとしたのだけではなく、科學(xué)知識(shí)を蓄積させることで、順調(diào)な航海を成立させようと努力していた証拠でもある。

天后宮に「設(shè)色星図」があったのは偶然ではない。莆田では古くから海運(yùn)を利用した交易が盛んだった。莆田には三大天然灣があり、海岸線が長い。つまり良好な港を作ることができた土地だ。地元の産品は船で運(yùn)ばれて行き、外からの品物も船で到著した。莆田は陸のシルクロードと海のシルクロードの中継地でもあり、中國沿岸を北上または南下する船の重要な寄港地でもあった。

遠(yuǎn)くの海に乗り出すには、星図が必要だった。莆田の海運(yùn)関係者は、さまざまな星図を集めたり、自ら作ったに違いない?!冈O(shè)色星図」は商人か船主が航海の安全を祈願(yuàn)するために媽祖に捧げたものである可能性が高い。

「設(shè)色星図」があった天后宮は1953年ごろに、運(yùn)輸関連の事務(wù)所として使われることになった。そのため、內(nèi)部にあった祭器や書畫は地元の涵江文化館に引き渡された。涵江文化館が1976年8月に所蔵する書畫を整理したところ、「設(shè)色星図」が見つかった。文化的価値が高いとみられたために、福建省博物館に送って鑑定を受けることになった。ベテラン畫家數(shù)人が鑑定したところ、星図に描かれている手の込んだ絵は明代末期から清代初期の作風(fēng)を反映しており、流派としては揚(yáng)州派の特色があると見なされた。

「設(shè)色星図」は1977年に北京に送られ、文化財(cái)を管理する國家文物局と考古研究所が手配した考古學(xué)や天文學(xué)の専門家が共同で鑑定した。その結(jié)果、「設(shè)色星図」は歴史的価値が極めて高いと認(rèn)定された。

中國には、歴史的な星図がかなり多く殘っている。始皇帝が中國を統(tǒng)一する前に描かれた図も殘っているほどだ。しかし宋代から清代にかけては星図の「空白期」だった。「設(shè)色星図」は中國の星図史を補(bǔ)完する極めて重大きな価値を認(rèn)められた。

「設(shè)色星図」は、中國人が星の観測をずっと続けていた証拠でもある。例えば、1572年11月に、天空に突如として出現(xiàn)したティコ新星も「設(shè)色星図」に描かれている。

設(shè)色星図

媽祖文化は「21世紀(jì)?海のシルクロード」の共同建設(shè)を後押しする

天后宮は今も、海外に渡った多くの華僑?華人の重要な交流場所だ。そして、各地域の特色を持つ広大な媽祖文化圏が形成された。例えばシンガポールの興安會(huì)館やマレーシアの海南會(huì)館は拠點(diǎn)の代表格だ。

媽祖文化は全世界の49の國と地域に伝播し、蒲田の媽祖廟から分祀された媽祖廟は1萬カ所以上もある。3億人以上が媽祖を信仰し、「海水あるところには華人あり、華人あるところに媽祖あり」という狀況が形成された。媽祖信仰は2009年にユネスコの人類無形文化遺産リストに登録された。媽祖は中國としての初めての、信仰として登録されたユネスコの人類無形文化遺産だ。

人類の文明は交流と相互參照によって多彩になり、民族文化は記憶と伝承によって受け継がれていく。蒲田はまさに、長い歴史を通じて文明の交流の玄関口だった。そして、媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされる。黙娘は當(dāng)時(shí)の莆田県の一部だった湄州島の出身だ。すなわち、莆田は媽祖信仰の発祥の地と言える。

莆田から始まって広範(fàn)囲に伝播した媽祖文化を懸け橋として、それぞれの國や地域の民衆(zhòng)とのつながりを強(qiáng)めることで、「21世紀(jì)?海のシルクロード」を共同建設(shè)するための、人々の心の融和を後押しすることができる。(構(gòu)成 / 如月隼人

※記事中の中國をはじめとする海外メディアの報(bào)道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個(gè)人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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