中國(guó)?長(zhǎng)江文明からもたらされた稲作が日本の社會(huì)や文化を決定した―日本人専門家

中國(guó)新聞社    2023年9月20日(水) 22時(shí)30分

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稲作農(nóng)業(yè)は中華文明の発展にとって重要な物質(zhì)面の支えとなり、中華文明には稲作に関係する要素が多く含まれるようになった。稲作は一方で、日本の文化文明にも決定的な影響を與えた。

稲は人類が最も早く栽培しはじめた作物の一つで、世界の人口の約半分が米を主食にしているとされる。稲作農(nóng)業(yè)は中華文明の発展にとって重要な物質(zhì)面の支えとなり、中華文明には稲作に関係する要素が多く含まれるようになった。稲作は一方で、日本の文化文明にも決定的な影響を與えた。中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社はこのほど、北京外國(guó)語(yǔ)大學(xué)日本語(yǔ)學(xué)院、北京日本學(xué)研究センター準(zhǔn)教授の馬場(chǎng)公彥氏に、日本への稲の伝播や稲作が文化に及ぼした影響などについて話を聞いた。以下は馬場(chǎng)準(zhǔn)教授の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで整理?再構(gòu)成したものだ。

日中文化の共通性には稲作という土臺(tái)がある

考古學(xué)、文化人類學(xué)、農(nóng)業(yè)學(xué)の研究では、イネの原始品種はインドあるいは中國(guó)雲(yún)南省に起源を持ち、その後はイネの栽培技術(shù)が主に長(zhǎng)江下流部から日本に伝來したと考えられている。日本に稲作技術(shù)が伝わった時(shí)期についてはいくつかの説があるが、彌生時(shí)代の紀(jì)元前3世紀(jì)ごろには日本の九州地方で稲作が一般的に行われていた。當(dāng)時(shí)の日本は狩猟、採(cǎi)集、漁獲を主な生産手段とした縄文時(shí)代から、農(nóng)業(yè)を主な生産手段にする彌生時(shí)代に入る時(shí)期だったが、稲作技術(shù)の伝來はこの生産方式を転換する觸媒となった。最近の研究では、九州地方の縄文後期の遺跡に灌漑施設(shè)の痕跡があることが分かった。つまり水田耕作は彌生時(shí)代より前に始まったことが分かった。稲作技術(shù)が日本に伝わったのは縄文時(shí)代後期から彌生時(shí)代初期という説が多く受け入れられている。

稲作がどのようにして日本に到著したかについてには定説がない?,F(xiàn)在は3種の説がある。第1の説は「朝鮮半島を経由して北九州に到達(dá)した」で、さらに「中國(guó)から直接九州に伝わった」、「海路を通って沖縄に到達(dá)し、そこから九州に到達(dá)した」という2説がある?,F(xiàn)在までの研究で、朝鮮半島の稲田跡と九州地方の稲田跡が似ていることが明らかになったことから、第1の説が比較的広く認(rèn)められている。

稲作の伝來は、日本に農(nóng)業(yè)社會(huì)と定住生活という大きな社會(huì)変革をもたらした。日本人は集団労働の生活を送るようになり、親族や村落の概念が現(xiàn)れ、國(guó)家などの政治制度が現(xiàn)れた。つまり、人口、産業(yè)、社會(huì)制度がすべて変化した。

米は儀式や季節(jié)の行事にも結(jié)び付いた。例えば餅だ。中國(guó)の雲(yún)南省では餅文化が栄えている。日本人は入學(xué)、成人、結(jié)婚などの祝い事や伝統(tǒng)的な祝日に餅を食べる。中國(guó)にも祝日に餅を食べる伝統(tǒng)があるが、祝いの內(nèi)容は異なる。伝統(tǒng)的な祝日は農(nóng)業(yè)の文化と気候によって決まる。日中両國(guó)は同じ季節(jié)感を持っているので、伝統(tǒng)的な祝日の時(shí)期にあまり違いはないが、祝賀行事には違いがあり、食べる物も同じではない。

稲作文化には他に、収穫期の労働歌や民話、言い伝えなどがある。農(nóng)民はそうした農(nóng)耕文化の伝承者だ。中國(guó)雲(yún)南省の少數(shù)民族には男女が歌を掛け合う伝統(tǒng)がある。この風(fēng)習(xí)は日本の「萬(wàn)葉集」にも出てくる。すなわち、日中両國(guó)の稲作文化における共通點(diǎn)だ。日中両國(guó)でよく似た稲作文化が形成されたのは、稲作農(nóng)業(yè)という産業(yè)形態(tài)が人の生活様式を決定するからだ。農(nóng)業(yè)は労働集約型の産業(yè)であり、必然的に人の集まりをもたらし、親族や村落が形づくられる。ただし、日本の村落は血縁と地縁が結(jié)合して形成されたのに対して、中國(guó)の村落は基本的に血縁と宗族でつながっている。だから同じ農(nóng)業(yè)社會(huì)であっても、日本と中國(guó)では社會(huì)が作られる原理や宗教體系が異なる。

稲作は人々の蕓術(shù)意識(shí)も育んだ

食は人間文化の重要な中核部分の一つだ。食料を安定供給せねばならない。そのために産業(yè)はどのように運(yùn)営されるのか、自然環(huán)境にどう適応するか、どのような獨(dú)自の生活文化が生まれたのか。日中両國(guó)がこれらを哲學(xué)や思想、文化の観點(diǎn)から共に考え、理解し合うことは極めて重要だ。

農(nóng)業(yè)活動(dòng)の視座から文化を考えることは重要だ。同じ風(fēng)土、同じ気候、同じ産業(yè)構(gòu)造ならば、文化には多くの類似點(diǎn)が出現(xiàn)するだろう。食べ物、食べ物の作り方、使う農(nóng)具、利用する耕作技術(shù)などだ。中國(guó)の華中、華南、雲(yún)南地域の建築物には、日本の農(nóng)村の建築物と共通點(diǎn)がある。建物の形だけでなく、生活様式や文化の観點(diǎn)を持てば、共通點(diǎn)をより深く理解することができる。

蕓術(shù)意識(shí)も関係している。私は水が張られた田を見ると美しいと思う。黃金色の稲穂を見ると充実した気持ちになる。稲作がもたらした景観に觸れてふるさとを感じる。日中に共通するふるさとのイメージだ。

日本文化の基礎(chǔ)部分は長(zhǎng)江文明に根ざす

一般的には、日本は儒教思想や漢詩(shī)を多く受け入れたと認(rèn)識(shí)されている。これらは中國(guó)北部の中原地域の文化だ。しかし稲作を考えれば、日本は中國(guó)の長(zhǎng)江以南と密接なつながりを持っていることが分かる。長(zhǎng)江文明は中國(guó)のもう一つの文化であり、日本人は稲作をベースにした長(zhǎng)江文明に親しみと関心を感じる。日本は中國(guó)から儒教思想や中國(guó)文學(xué)、その他の先進(jìn)的な精神文化を取り入れたが、日本の生活や文化の基礎(chǔ)部分は長(zhǎng)江文明に根ざしている。稲作を切り口に日中の文化を考えるのも良い方向性だ。

日中の人の往來は3年間にわたり、新型コロナウイルス感染癥の影響で途絶えた。昨年は日中國(guó)交正常化50周年、今年は日中平和友好條約45周年を迎えたが、日中関係の先行きは不透明で、両國(guó)の學(xué)術(shù)交流も以前の狀態(tài)に戻っていない。世界に目を向けると、自由貿(mào)易システムが保護(hù)主義の衝撃を受けている。このような時(shí)だからこそ、人類の平和と持続可能な発展のために、知識(shí)と文化の交流が重要になる。

私は先ごろ、北京文化フォーラムに參加したが、日中が共に參加する文化フォーラムや科學(xué)技術(shù)交流、メディア協(xié)力は非常に意義があるだろう。このような催しを通じて、中國(guó)文化あるいは中華文明と各國(guó)の文化伝統(tǒng)との共通性を改めて考えることは非常に重要だ。さまざまな角度から再検討することで、文化の差異性を認(rèn)めつつ、文化の共通性を支えにして文化が共存共栄する環(huán)境を作り出し、そのことで日中両國(guó)の文化交流を促進(jìn)することができるはずだ。(構(gòu)成/如月隼人


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