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チベット醫(yī)學(xué)はよく、「インド醫(yī)學(xué)の系統(tǒng)」と言われる。しかしそう言い切ってしまうのは問(wèn)題があるという。寫(xiě)真は青海省西寧市にある「チベット醫(yī)薬文化博物館」。
日本では「元は中國(guó)から伝わって來(lái)た醫(yī)學(xué)。だから漢方と言う」などと、よく言われる。しかし中國(guó)には本來(lái)「漢方」という言葉がなかった。日本の伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)は中國(guó)から伝わったが、江戸時(shí)代にオランダ醫(yī)學(xué)が伝わると「蘭方」と呼ばれるようになり、日本で伝えられてきた醫(yī)學(xué)は中國(guó)から伝來(lái)したということで「漢方」という言葉が発生したという経緯だ。中國(guó)では「中醫(yī)」などと言う?!钢嗅t(yī)」とは一般に、漢族の祖先が生み出し、発展させながら伝えてきた醫(yī)學(xué)體系だ。しかし中國(guó)にはチベット醫(yī)學(xué)、モンゴル醫(yī)學(xué)、ウイグル醫(yī)學(xué)などの異なる伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)の體系がある。よく「チベット醫(yī)學(xué)はインドから伝わった醫(yī)學(xué)體系だ」と言うが、青海大學(xué)チベット醫(yī)學(xué)院の李先加院長(zhǎng)によると、歴史の経緯はさらに複雑だ。李院長(zhǎng)はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、「チベット醫(yī)學(xué)とはどのようなものか」を説明した。以下は李院長(zhǎng)の言葉を整理するなどで再構(gòu)成したものだ。
チベット醫(yī)學(xué)は歴史が長(zhǎng)く、その理論體系からしても、最も完全な伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)の一つとされる。古い文獻(xiàn)は質(zhì)が高く量は多い。人の受胎や解剖學(xué)の知識(shí)、薬の調(diào)合技術(shù)や理論面の水準(zhǔn)は極めて高い。さらに心疾患の認(rèn)識(shí)と治療法などでも獨(dú)自の手法がある。
チベット醫(yī)學(xué)の理論體系の形成は2世紀(jì)以上をかけて西暦7、8世紀(jì)に固まった。チベット高原の住民はそれ以前に、劣悪な自然環(huán)境や疾病と闘う過(guò)程で大量の診療経験を蓄積し、ボン教醫(yī)學(xué)などの現(xiàn)地醫(yī)學(xué)を形成していた。ボン教とは、チベットに仏教がもたらされる以前から存在した宗教だ。最初期にチベット醫(yī)學(xué)に攜わった人らは古代インド醫(yī)學(xué)、漢族の醫(yī)學(xué)、古代西洋醫(yī)學(xué)などを吸収してチベット醫(yī)學(xué)の體系を構(gòu)築した。
チベット醫(yī)學(xué)はよく、インド醫(yī)學(xué)の系統(tǒng)と言われるが、古代チベット人はインド醫(yī)學(xué)だけを受け入れて、他の醫(yī)學(xué)體系を排除したわけではない。例えば中原醫(yī)學(xué)の理論で極めて重要な「陰陽(yáng)五行説」や古代西洋醫(yī)學(xué)の「四體液學(xué)説」なども取り入れた。初期のチベット醫(yī)學(xué)はまさに「百家爭(zhēng)鳴」だった。遠(yuǎn)く離れた地域からそれぞれの地域の醫(yī)學(xué)の専門(mén)家がチベットにやってきた。早い時(shí)期に著された醫(yī)薬文獻(xiàn)は計(jì)230巻余りで、內(nèi)容は基礎(chǔ)理論をカバーするほか、外傷、疫病、內(nèi)科、婦人科、解毒などの臨床分野に及び、薬の調(diào)合などの記述にも及んでいる。このような多くの醫(yī)學(xué)體系が同じ時(shí)期に一つの場(chǎng)所に集まり融合したことは、人類の醫(yī)學(xué)史全體においてもまれだ。
チベット高原には當(dāng)時(shí)、30種近くの外來(lái)の醫(yī)學(xué)思想や學(xué)説、診療技術(shù)が伝わった。醫(yī)學(xué)書(shū)として極めて重要な「四部醫(yī)典」などのチベット醫(yī)學(xué)の経典にはそれがすべて取り入れられている。ただし、醫(yī)學(xué)の知識(shí)を単純に追加していったのではない。ある特定の醫(yī)學(xué)體系の中では中核的な概念であったとしても、チベット醫(yī)學(xué)に取り入れられるとは限らなかった。例えば古代ローマの解剖學(xué)知識(shí)、インド醫(yī)學(xué)の受胎説、中醫(yī)學(xué)の経絡(luò)説などはいずれも、チベット醫(yī)學(xué)の経典には取り入れられていない。
中國(guó)には多くの少數(shù)民族が存在する。各民族の居住地の地理環(huán)境や歴史文化が異なるが、それぞれが生産と生活の中で病気を予防し治療するための豊富な醫(yī)薬知識(shí)と実踐経験を蓄積し、自民族の繁栄に役立ててきた狀況は同じだ。
代表的な醫(yī)學(xué)體系としては、モンゴル醫(yī)學(xué)、ウイグル醫(yī)學(xué)、タイ醫(yī)學(xué)などがあるが、チベット醫(yī)學(xué)も含めて、全體を重視する外見(jiàn)、天と人は不可分とする「天人合一」、自然を重視すること、論理を組み合わせて治療を行うなどは共通だ。
特定の醫(yī)學(xué)理論がある民族から別の民族に伝わることはあったが、それぞれの民族は外來(lái)醫(yī)學(xué)であっても「現(xiàn)地化」して発展させた。たとえばモンゴル醫(yī)學(xué)は理論面でチベット醫(yī)學(xué)の理論を受け継いだが、獨(dú)自の手法を編み出した。例えば馬乳酒を使った治療や脳震盪(のうしんとう)の治療術(shù)などだ。ウイグル醫(yī)學(xué)の主な理論はアラブ醫(yī)學(xué)を経由して伝わった古代西洋醫(yī)學(xué)だ。ウイグル醫(yī)學(xué)は白斑などの治療に大きな特色がある。タイ醫(yī)學(xué)は主に南方仏教の深い影響を受けている。タイ醫(yī)學(xué)は多くの內(nèi)容が記録として殘っており、例えば関節(jié)炎の治療などに強(qiáng)みがある。
世界保健機(jī)関(WHO)は21世紀(jì)の醫(yī)學(xué)について、疾病病醫(yī)學(xué)から健康醫(yī)學(xué)へ、治療重視から予防重視へ、病源に対する対抗治療から全體治療へ、醫(yī)師の役割の重視から患者の自己保健作用の重視へと発展すると表明した。
このWHOの理念はチベット醫(yī)學(xué)が打ち出した自己予防、養(yǎng)生とリハビリテーション、心身の合一、自然重視といった考え方に完全に一致している。チベット醫(yī)學(xué)の多くの理念と方法は未來(lái)に向けての醫(yī)學(xué)の発展方向と合致している。中國(guó)は、伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)の発展を大いに提唱し、推進(jìn)し、自國(guó)の伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)と西洋醫(yī)學(xué)の両方を重視することを堅(jiān)持し、「多元醫(yī)學(xué)」として協(xié)力しつつ各種の醫(yī)療と健康問(wèn)題を解決することを提唱している。チベット醫(yī)學(xué)は、1000年以上にわたって広い地域に伝えられてきた完全な醫(yī)薬理論體系として、時(shí)代を超越した知恵と生命力を秘めている。われわれがその精華の伝承を堅(jiān)持し、真の革新を続ければ、チベット醫(yī)薬は必ずや、大いに役に立つはずだ。
チベット醫(yī)學(xué)の伝統(tǒng)には、もう一つ大きな特徴がある。伝統(tǒng)醫(yī)學(xué)では多くの場(chǎng)合、「師匠が內(nèi)弟子に伝える」方式で後継者を育成していた。しかしチベット醫(yī)學(xué)では寺院が教育機(jī)関、つまり學(xué)校を設(shè)立することで學(xué)生を育てた。そして育成された大量の醫(yī)師が人々を治療した。チベットの周辺地域に赴いた人も多かった。統(tǒng)計(jì)では、名がよく知られる歴史上の醫(yī)師だけで1500人がいる。彼らの多くが醫(yī)學(xué)書(shū)を著した。初歩的なまとめでは3000巻余りが現(xiàn)存している。チベット醫(yī)學(xué)のあらゆる分野をカバーするこれらの文獻(xiàn)は、チベット醫(yī)學(xué)が地域や國(guó)、さらには人類全體の醫(yī)療や健康に貢獻(xiàn)するための大きな財(cái)産になるはずだ。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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