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色とりどりの花を愛する心は人類全體に共通すると言ってよいだろう。しかし、実際の「花を愛でる流儀」は時(shí)代や民族によって異なる。では、中國人はどのように、さまざまな花を楽しんできたのだろう。
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色とりどりの花を愛する心は人類全體に共通すると言ってよいだろう。しかし、実際の「花を愛でる流儀」は時(shí)代や民族によって異なる。では、中國人はどのように、さまざまな花を楽しんできたのだろう。中國工蕓美術(shù)學(xué)會(huì)香り文化委員會(huì)の孟暉副主任はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、長い歴史を通しての中國人と花の関わりや他の文化圏との違いを説明した。以下は孟副主任の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
「美しい花を愛でる」行為も、やはり文化の一種だ。中國人が行ってきた花見も、中華文明の全體的な進(jìn)歩に伴って絶えず豊かになり、様相が変わってきた。
中國の大部分の地域では四季がはっきりしている。秋には落葉し、冬には雪が舞う。3、4カ月間は、植物の息吹をあまり感じない寂しい日々が続く。だからこそ、再び巡ってくる春は格段に素晴らしい。春になると山水は美しい姿を見せ、草木が豊かに茂り、さまざまな種類の花が順を追って咲いていく。遅くとも戦國時(shí)代(紀(jì)元前5世紀(jì)-同221年)には、春になれば山や水辺に皆で繰り出して花を愛でる風(fēng)習(xí)が発生していた。
また、中國では古くから農(nóng)業(yè)が発達(dá)した。そのことも関係して、人々は植物に対して濃厚かつこまやかな感情を持つようになった。はっきりとした四季や季節(jié)折々の農(nóng)作業(yè)によって、古人は時(shí)間の推移に特に敏感になった。開花は優(yōu)美な光景で時(shí)間の流れを體現(xiàn)するので、古人は花を通じて天地萬物の繰り返しの規(guī)則を感じ、もろい一方でたくましくもある生命の特質(zhì)を感じた。古人は花を世界の縮図として鑑賞した。中國人が満開の花を見た時(shí)に湧き上がる感情は自然や宇宙の萬物に対する優(yōu)しい愛情だ。
古人は野の花を鑑賞していただけではない。宋代(1127-1279年)以降には花の栽培技術(shù)が高度に発達(dá)した。そのことで、ほぼ1年を通じて花を愛でることが可能になった。中でも代表的な花は、夏はハス、秋はモクセイ、冬は梅、ロウバイ、水仙だ?!秆─蛱い螭敲筏蛱饯埂工鲜看蠓蛭娜摔巫瞍鈯Wゆかしい行いになった。
もちろん庶民も花を愛でた。唐代(618-907年)初期には、人々が老若男女を問わず集団で遠(yuǎn)い野に出て、自然の花を鑑賞した。この花見は盛大な交流の行事でもあった。特に戦國時(shí)代までは、若い男女が花を摘みながら、戀の相手を探し求めた?;イい藲荬巳毪欷小⒆预椁螭老銡荬ⅳ栅欷牖à洳荬蛸?zèng)り合った。春の開花は、「戀の開花」に直結(jié)していた。
唐の最盛期に花見の文化はさらに成熟した。さまざまな公的機(jī)関や、民間人でも財(cái)力がある場合には、都市の內(nèi)外に花の木を栽培した。そこには樓閣も築いた。この半人工的な空間で、多くの人が花見を楽しんだ。有名なのは唐時(shí)代の曲江、宋代から現(xiàn)在までの杭州西湖、明清時(shí)代の揚(yáng)州痩西湖、嘉興南湖などだ。明代には西湖のほとりにある富豪一家が提燈をつるして、訪れた人々が夜になっても桃の花を楽しめるようにした。
花見は「祭り」でもあった。人々は花の下で食事をしたり、歌ったり音楽を奏したり、馬を走らせたり、たこ揚(yáng)げをしたりした。そして、商売人が商品を並べ、蕓人が歌や語り物を披露するようになった。こうして、花見客は一層楽しめるようになった。
唐代後期からは、私設(shè)庭園が作られるようになった。ただ、庭園の主が花を獨(dú)り占めしたわけではない。植えている植物の開花期になれば庭園は開放され、大衆(zhòng)は自由に出入りして趣を楽しんだ。
宋代になると、都市部の私設(shè)庭園はますます増えた。造園にあたっては、庭としてのすばらしさが重視されるようになり、そのための技術(shù)も発達(dá)した。つまり素晴らしい庭園で花見をすることは蕓術(shù)に觸れることだった。このことで一般庶民も、知らず知らずにして自らの素養(yǎng)を高めた。
明代(1368-1644年)から清代(1644-1912年)にかけては、花見と蕓術(shù)鑑賞が融合するの傾向がさらに強(qiáng)まった。私設(shè)庭園の主は、園內(nèi)の建物に書畫や陶磁器の逸品を置くようになった。庭園を開放する時(shí)期には、このような美術(shù)品も公開した。訪れた人々は由緒ある美術(shù)品を鑑賞し、感覚を磨き知識(shí)を増やした。
私設(shè)庭園の造成や維持には莫大な費(fèi)用がかかる。しかし花の季節(jié)に一般の人に開放したことには「皆さんのため」という目的意識(shí)があった。だから入場料を徴収することはなかった。しかし入場する人の側(cè)には、庭師に「心づけ」を支払う習(xí)慣が発生した。庭師は1年を通じて庭の手入れや草木の世話をしている?!袱菠丹蓼恰⒔衲辘未氦饷坤筏せà驕簡摔工毪长趣扦蓼筏俊工?、感謝の気持ちを示したのだ。人情味にあふれる習(xí)慣ではなかろうか。
よく知られているように、日本には桜を見る伝統(tǒng)がある?;à蜗陇菚?huì)食したり、歌ったり踴ったりする習(xí)慣は、中國の歴史上の花見に非常に近い。日本の花見には中國文化の影響があると思う。
私の知っているところでは、ペルシャ文化圏には春に郊外で花見をする伝統(tǒng)があった。人々は花の名所に訪れて宴席を設(shè)けて楽しみ、詩作を競ったりする。楽器を奏でることもある。やはり、花を愛でると同時(shí)に、蕓術(shù)を楽しんだわけだ。
西洋の花見文化は、中國や日本、ペルシャなどの花見文化とくらべれば、ずいぶん見劣りがすると思う?;ㄒ姢仁|術(shù)の結(jié)びつきは希薄だし、咲いてはいつか散る花に、萬物の移ろいを見出すという世界観に直結(jié)する花の鑑賞精神もさほど形成されていないと感じる。
中國では「花文化」がさらに高度に発達(dá)した。文人士大夫にとって、もっとも重要な社交行事の一つは「賞花會(huì)」だった。見ごろの時(shí)期に合わせて「ボタン會(huì)」、「シャクヤク會(huì)」などが催された。それ以外にもカイドウ、蓮華、桂花、菊を愛でる會(huì)が行われた。単に花を愛でるだけでなく、どの建物をどう使うなどが、綿密な計(jì)算によって決められた。植えられている花を鑑賞するだけでなく、建物の柱、ドア、窓、壁などに數(shù)多くの竹筒を取り付けて、花を生ける方法もあった。屋形船を菊の花でいっぱいにして、その船に乗って菊の香り中で風(fēng)景を満喫する「菊舟」という遊びもあった。
清代には花の都とされた浙江省の蘭渓で「花浴堂」が出現(xiàn)した。個(gè)室式の入浴施設(shè)で、各浴室はそれぞれ別の珍しい花で飾られた。客は自分の好みで花を選び、その花でいっぱいの浴室で著物を脫いで入浴し、のんびりと茶をすすったりした。
また、「花饌」と呼ばれる花を食材にした料理體系も出現(xiàn)した。例えば、ハクモクレンやハスの花を炒め物にした。菊の花を使った鍋料理もあった。また、酒に花を漬けて「花酒」を造った。各種の花を蒸して「花露」という飲み物も作った。この「花露」は健康によいとされた。
中國人の美學(xué)は、西洋の哲學(xué)のように苦しい思索を重ねて「美とは何か」を追求するものではなかった。他人との共感があれば、それを目指して進(jìn)んだ。そして目、鼻、口などの感覚を使って美を體感した。中國の伝統(tǒng)的な花見文化はこのように、花や園林、文化蕓術(shù)を組み合わせて、すべての人に「人の価値」や「命の価値」を感じさせるものだった。美の境地を目指す人の努力と自然の恵みは互いに呼応して、互いに裏切ることはない。自然は花を與えてくれる。人は自らの心や手を使って、花の行事を執(zhí)り行ってきた。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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