古代雲(yún)南の「滇」國(guó)、長(zhǎng)年の調(diào)査で當(dāng)時(shí)の実態(tài)が明らかに―発掘責(zé)任者が紹介

中國(guó)新聞社    2023年4月18日(火) 14時(shí)30分

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雲(yún)南省には紀(jì)元前3世紀(jì)ごろから、滇(てん)という王國(guó)が存在していた。史料が極めて少ないためにかつては実情が把握できなかったが、長(zhǎng)年の考古學(xué)研究で次第に全容が見えてきた。寫真は雲(yún)南省博物館の展示物。

中國(guó)南部の雲(yún)南省には紀(jì)元前3世紀(jì)ごろから、滇(てん)という王國(guó)が存在していた。司馬遷の「史記」にも滇の記述があるが、それ以外の史料が極めて少なく、滇については詳しく分かっていなかった。しかし、長(zhǎng)年にわたる考古學(xué)調(diào)査により滇の実情が判明しつつある。例えば、「滇王之印」が出土したことだ。この金印は日本の福岡県で出土した「漢委奴國(guó)王印」と形式が合致している。このことで、滇は當(dāng)時(shí)の中國(guó)とは全く別途に存在していたのではなく、漢の皇帝に領(lǐng)土の統(tǒng)治を認(rèn)められる形式で存在していた國(guó)だったことが確実になった。雲(yún)南省文物考古研究所の研究員で現(xiàn)地の発掘チームリーダーも務(wù)めるの蔣志龍氏はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞紗の取材に応じて、これまでに分かって來た滇という古代王國(guó)の狀況を説明した。以下は蔣研究員の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

長(zhǎng)年にわたる発掘調(diào)査で「滇」國(guó)の実在を立証

雲(yún)南省省都である昆明市郊外には、滇池と呼ばれる省最大の湖がある。滇は戦國(guó)時(shí)代から漢代まで続いた滇池周辺を統(tǒng)治した國(guó)だった。だが、史料不足のために古い時(shí)代の雲(yún)南の歴史については諸説が入り亂れる狀態(tài)だった。

考古學(xué)者は1956年、滇池の南東岸にある晉寧石寨山古墓群を発掘して、大量の精巧な青銅器や「滇王之印」を発見した。この発見で、滇という古代國(guó)が実在したことが分かったとして、センセーションが巻き起った。ただし実際には、この段階で「滇という國(guó)が存在した」とまで言い切れなかった?!竾?guó)家」が成立していたと斷言するために必要な、都市や大規(guī)模な建物、村や集落、生活の痕跡がといった証拠が不足していたからだ。

雲(yún)南省文物考古研究所は2008年、米ミシガン大學(xué)と協(xié)力して調(diào)査を行い、滇池南東岸、南岸、西岸地域の遺跡を発見した。遺跡には、雲(yún)南の現(xiàn)地文化に屬すると見られるものも、漢族文化に屬するものもあった。16年の調(diào)査では、さらに古い先滇文化に屬する遺跡も見つかった。その後も調(diào)査は続き、22年以降には、文字を書く「簡(jiǎn)牌」と呼ばれる板も大量に出土した。これは漢代のものだ。さらには、大型建築物の基礎(chǔ)部分や広い道路なども見つかった。

これらの発見により、古代國(guó)家である滇の実在が確実になり、その実態(tài)も判明してきた。たとえば、行政文書である「簡(jiǎn)牌」によって、漢の武帝が滇に役人を派遣するなど、中國(guó)各地で採(cǎi)用されていた郡県制を基礎(chǔ)とする行政管理體系が確立されていたことが分かった。

規(guī)模最大の河泊所遺跡は滇の都だった可能性

滇の研究にとって重要な遺跡の一つが河泊所遺跡だ。石寨山古墓群からはわずか700メートルと極めて近い場(chǎng)所にある。河泊所遺跡は雲(yún)南で発見されている遺跡の中で規(guī)模が最も大きく、街として存続した時(shí)間は最も長(zhǎng)い。河泊所遺跡では現(xiàn)在、10カ所で正式な発掘が行われている。発掘場(chǎng)所の面積は累計(jì)で7000平方メートルに達(dá)した。河泊所遺跡は、滇の都だった可能性がある。

河泊所遺跡の調(diào)査により、滇の領(lǐng)域で出現(xiàn)する青銅器の出現(xiàn)順序が確定された。炭素14による年代測(cè)定によると、河泊所遺跡は紀(jì)元前1300年ごろから漢代まで街として機(jī)能した。金屬製品の研究により、現(xiàn)地で青銅器の使用を開始したのは紀(jì)元前1200年から同1100年の間と確定された。金屬製品の使用開始は、それまでの説よりも500年以上早まった。

また、前漢は紀(jì)元前109年に、現(xiàn)在の行政區(qū)分で言えば雲(yún)南の北隣にある四川省に益州という郡を設(shè)置して中國(guó)南西部を統(tǒng)治したが、河泊所遺跡には関連する公文書としての文字が記載された「簡(jiǎn)牌」が出としており、滇には益州の出先機(jī)関が置かれていたと考えられるようになった。當(dāng)時(shí)の雲(yún)南は地方としての獨(dú)自性を保つと同時(shí)に、中央の統(tǒng)治と管理も及んでいた。これは中華文明の多元的かつ一體的な発展過程を示すものだ。

異なる二つの文化は「二者択一」の対象ではなかった

われわれは、滇池盆地と周辺地域で、石寨山古墓群、江川李家山古墓群など古墓群4カ所と河泊所遺跡を相次いで発見し調(diào)査してきた。これらは石寨山(文化的)大遺跡と呼ばれている。これらの遺跡からは、地方色が鮮明な青銅器が出土している。例えば「牛虎銅案」と呼ばれる青銅象や、全體を青銅で作った「銅鼓」と呼ばれる楽器もある。この「銅鼓」は現(xiàn)在でも雲(yún)南の一部の少數(shù)民族が儀禮用に使っている。兵器や、異なる音高の鐘を並べることで、旋律を奏でられる編鐘も出土した。青銅製のボタン飾りも見つかった。

これらから、古代の滇では、青銅文明が高度に発達(dá)していたことが分かった。また、多くのボタン飾りにはルビーなどの寶石がはめ込まれていた。これは、當(dāng)時(shí)の滇が周辺地域と交易をしていたことを示す証拠だ。

先滇文化の遺跡での建物は高床式だが、漢代になると竪穴式住居が出現(xiàn)した。また、基礎(chǔ)を有する建物も造られるようになった。漢代の滇では、現(xiàn)地の伝統(tǒng)的な文化と、中國(guó)中央から伝わって來た文化が複雑に融合していた。異なる2種類の文化文明は「あちらを取れば、こちらは取らない。こちらを取れば、あちらは取らない」という二者択一式ではなく、共存し融合した。

先滇時(shí)代の建築物は規(guī)模が小さく、副葬品も陶器や青銅器など、主に現(xiàn)地文化によるものだった。漢代になると、大型の建物や一定規(guī)模の道路が出現(xiàn)し始めて、副葬品に中國(guó)中央からきた貨幣や硯が出現(xiàn)するようになった。當(dāng)時(shí)の人々は、中國(guó)中央部の文化に対して全く受動(dòng)的であったのではなく、自ら進(jìn)んで先進(jìn)的な生産方式や生活様式を?qū)毪筏郡瓤激à椁欷搿?/p>

そして、河泊所遺跡から出土した公文書である「簡(jiǎn)牌」からは、郡県制が中國(guó)に大統(tǒng)一をもたらすために、極めて大きな役割りを果たしたことが分かる。(構(gòu)成 / 如月隼人



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