<日本人の忘れられない中國>「かつて我が國と日本は戦爭を…」=中國人教師の溫かくて優(yōu)しい教え

日本僑報社    2023年4月16日(日) 13時0分

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當(dāng)時私は小學(xué)3年生。北京語など全くわかりません。もちろん日本人學(xué)校はまだなく、夏休みの時期を終えた頃に、中國人児童が通う現(xiàn)地小學(xué)校に編入する事になりました。

1972年(昭和47年)6月。外務(wù)省職員だった父は、數(shù)か月後の日中國交回復(fù)の兆しがある中で本省よりその命を受け、家族と共に北京に移り住みました。當(dāng)時私は小學(xué)3年生。北京語など全くわかりません。もちろん日本人學(xué)校はまだなく、夏休みの時期を終えた頃に、中國人児童が通う現(xiàn)地小學(xué)校に編入する事になりました。

その學(xué)校は我が家が住む外交公寓(外國人用アパート)からほど近い場所にありました。2階建てのセメント塗りの質(zhì)素ともいえる校舎。風(fēng)が吹けば土煙が舞うでこぼこしたただの更地である校庭。日本には必ずある鉄棒や雲(yún)梯などの遊具、プールや體育館など施設(shè)はありません。校名が書かれた看板がなければ、何に使われているかわからないような建物でした。

學(xué)校側(cè)から指定された8月末のある日。私は両親と、一緒に編入する浜口兄弟一家と共に學(xué)校を訪れました。校門を入ると、左右に分かれて立ち並んでいた數(shù)十名の生徒たちが、カラフルな紙で作った花を振りかざしながら、「歓迎(huan ying)! 歓迎!」と迎えてくれました。驚きと恥ずかしさを感じながら校舎の玄関に向かうと、校長以下數(shù)名の教師が待っていました。

同行していた父の職場の通訳を介して簡単に挨拶を済ませたあと、案內(nèi)されるままにとある教室前まで來ると、先ほどと同じように花を持った女子生徒たちが「歓迎! 歓迎!」と笑顔。教室の中には更に別の生徒たちが、ここでもまた大きな拍手で私たちを迎え入れてくれました。まるでレッドカーペットを歩くアカデミー俳優(yōu)のようですが、その時は自分に何が起きてるのか理解できず、ただただ「歓迎! 歓迎!」の聲と多くの拍手に圧倒されていました。

教室の正面に貼られた毛沢東主席の肖像畫の下にある黒板には、赤や白のチョークで「熱烈歓迎日本小朋友」と大きく書かれており、用意された椅子に私たちは座らされました。間もなく校長先生の挨拶が始まり、促されて父親達(dá)も必死に勉強(qiáng)したであろう北京語で挨拶。そして私は覚えたてのハーモニカで「春の小川」を吹き、浜口兄弟は「手のひらを太陽に」を歌いました。その後は中國人生徒による歌や踴り、武術(shù)の演武まで披露してくれました。一足先に入學(xué)していた先輩格の日本人女子?稲田さんも歌を披露。數(shù)日後に國交回復(fù)する友好ムードの中で行われた、文字通り熱烈な編入式でした。

翌日から通學(xué)が始まります。朝、外交公寓の門前には私たちそれぞれの同學(xué)(級友)がなんと! 迎えに來てくれていました。學(xué)校側(cè)の計らいだったのでしょう。私には張山くんという同學(xué)が、その日以降雨の日も雪の日も毎日欠かさず迎えに來てくれ、下校時も必ず送り屆けてくれました。進(jìn)級してもクラス替えがなかったので、張くんは卒業(yè)するまで毎日私を見守ってくれたのです。

授業(yè)はもちろん北京語です。全くわかりません。でも、新しい漢字を?qū)Wんだり短い文章を覚えるために皆で聲を出す時には、教師や學(xué)生が手振りで「聲を出して」と教えてくれます。音楽の授業(yè)でもとにかく皆で一緒に歌いました(革命の歌ばかりでしたが)。時には手の空いてる教師が私を別室に連れて行き、絵札などを使って北京語を教えてくれました。休み時間になると同學(xué)たちはノートを指しては「本子(ben zi)」、教科書を持っては「課本(ke ben)」。少し慣れて來ると今度は私が「のおと」「きょうかしょ」と日本語読みを教えたり……。誰もが常に笑顔で接してくれ、私は嫌な思いひとつすることなく、學(xué)校生活に溶け込んでいきました。

日本では漢字の勉強(qiáng)を始めたばかりの年頃の私にとって、漢字ばかりの教科書は當(dāng)然読めませんでしたが、その中に何度も出て來る「日本」の二文字に、私は赤ペンで線を引いていきました。純粋に嬉しかったのだと思います。ただ、「日本」の後には必ず「鬼子」「帝國主義」の文字が付いていました。

ある日、そんな私の教科書を見た擔(dān)任教師がこう話し始めました。

「皆さん、教科書を置いて下さい?!膜莆窑瑖热毡兢蠎闋帳颏筏皮い蓼筏?。良くない時代がありました。でも今は、私たちの國は仲良くなりました。そしてこのクラスには日本人同學(xué)もいます。皆と一緒に勉強(qiáng)をして、一緒に遊んでいます。これから両國はもっともっと仲良くなっていくでしょう?!?/p>

この日の出來事は、親と教師との間でやり取りされていた連絡(luò)ノートに書かれており、教師が言った內(nèi)容を私は親から聞きました。小學(xué)校低學(xué)年には戦爭がどういうものなのかまだわかりませんでしたが、教師の言葉は、目の前に座っている生徒たちが、今後両國の懸け橋になるのを望んだ上での教えだったのでしょう。どんなに溫かくて優(yōu)しかったか。50年を経た今でも、思い出すと胸が熱くなります。

■原題:溫かくて優(yōu)しい教え

■執(zhí)筆者プロフィール:加山 到(かやま いたる) 俳優(yōu)

1963年橫浜市生まれ。父親の仕事により少年期を北京?上海で過ごし現(xiàn)地校に通う。國際基督教大學(xué)高等學(xué)校、桜美林大學(xué)文學(xué)部中國語中國文學(xué)科を経て全日本空輸に入社。羽田及び成田で旅客業(yè)務(wù)や中國出張に従事。1988年俳優(yōu)活動開始。ドラマ「大地の子」「さよなら李香蘭」「流転の王妃」「ホーム&アウェイ」「レッドクロス」「Game Of Spy」映畫「落陽」「SPEC ~結(jié)~」朝ドラ?大河?月9他多數(shù)。

※本文は、第5回忘れられない中國滯在エピソード「驚きの連続だった中國滯在」(段躍中編、日本僑報社、2022年)より転載したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。

※記事中の中國をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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