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コラム「人生90年の足跡―體験で語(yǔ)る日本と中國(guó)―」第4回は「1953年に興安丸船にて帰國(guó)」。
4.1953年に興安丸船にて帰國(guó)
一橋大學(xué)で學(xué)んだ1年余りは、実に有意義なものでした。友人が多くできたし、先生との交流もありました。もともと卒業(yè)してから帰國(guó)する予定でしたが、興安丸にて無(wú)料で帰國(guó)できること、また祖國(guó)が歓迎しているということで早期帰國(guó)を決めました。
もっとも、その根底にはブルジョア統(tǒng)計(jì)學(xué)を?qū)Wんでも役に立たないという誤った判斷がありました。私は高校時(shí)代に數(shù)學(xué)クラブをつくったほど數(shù)學(xué)が得意でした。社會(huì)科學(xué)にも興味があり、數(shù)學(xué)も生かしたいので、経済統(tǒng)計(jì)學(xué)に優(yōu)れた一橋大學(xué)を選びました。ところが「ソビエトの統(tǒng)計(jì)理論」を読んでみると、ブルジョア統(tǒng)計(jì)理論と社會(huì)主義統(tǒng)計(jì)理論の違いが説かれ、日本でブルジョア統(tǒng)計(jì)理論を?qū)Wんでも、中國(guó)に帰ってから役に立たないと思うようになったのです。また、帰國(guó)したらソ連に留學(xué)するチャンスがあるのではないかと思ったことも帰國(guó)の動(dòng)機(jī)の一つでした。とにかく當(dāng)時(shí)のソ連は 進(jìn)歩的學(xué)生の憧れの的でした。
私が帰國(guó)することにしたと話すと、友人たちからは「日本の革命を放棄して、解放された中國(guó)に行くのか」と言われ、半分うらやましがれ、半分責(zé)められたりしました。
私は第一次帰國(guó)集団約4000人の一員として、1953年6月、舞鶴で興安丸に乗船しました。その前年に日本は臺(tái)灣の中華民國(guó)政府と「日華平和條約」を締結(jié)したばかりでしたから、國(guó)民黨政府の反対に遭い、日本政府は日本人引き揚(yáng)げ用の興安丸を利用して在日華僑を帰國(guó)させることには容易に同意しませんでした。そこで外務(wù)省に行って座り込みをし、許可するよう働きかけました。また、あり得るであろう國(guó)民黨政府の艦艇による妨害、襲撃に対して速やかな対応ができるようにと、船內(nèi)で自主的に「防御行動(dòng)隊(duì)(?)」を組織したことを記憶しています。
一緒に帰國(guó)した同僚の中には、後悔した者もいるようですが、帰國(guó)した私たち兄弟3人は、父親の反対を押し切って自ら選んだ道であり、皆前向きに取り組んできました。
■筆者プロフィール:凌星光
1933年生まれ、福井県立大學(xué)名譽(yù)教授。1952年一橋大學(xué)経済學(xué)部、1953年上海財(cái)経學(xué)院(現(xiàn)大學(xué))國(guó)民経済計(jì)畫學(xué)部、1971年河北大學(xué)外國(guó)語(yǔ)學(xué)部教師、1978年中國(guó)社會(huì)科學(xué)院世界経済政治研究所、1990年金沢大學(xué)経済學(xué)部、1992年福井県立大學(xué)経済學(xué)部教授などを歴任。
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