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2007年6月初頭、河北省滄州市南皮県で、清朝末期の有力官僚?張之洞の遺體が発見(jiàn)された。1966年秋、文化大革命中に紅衛(wèi)兵らに墓を暴かれた後、40年にわたり遺體は行方不明となっていた。
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2007年6月初頭、河北省滄州市南皮県で、清朝末期の有力官僚?張之洞の遺體が発見(jiàn)された。1966年秋、文化大革命中に紅衛(wèi)兵らに墓を暴かれた後、40年にわたり遺體は行方不明となっていた。
張之洞は清朝末期の有力官僚で、洋務(wù)派として知られる。経済建設(shè)事業(yè)?科挙廃止と日本留學(xué)などの新式教育推進(jìn)事業(yè)に盡力した。しかし新中國(guó)成立後は封建官僚として批判され、文化大革命期には墓まで暴かれた。
近年、中國(guó)近代化に果たした洋務(wù)派の役割が再評(píng)価され、張之洞の評(píng)価も大きく変わった。2004年の南皮県張之洞研究會(huì)の発足を皮切りに県でも張之洞再評(píng)価の機(jī)運(yùn)が高まり、2006年には記念館も建設(shè)された。
そこでぜひとも遺體を探し出したいと、南皮県張之洞研究會(huì)のシン家訓(xùn)(シン?ジャーシュン)會(huì)長(zhǎng)を中心に捜索が進(jìn)められていた。今年春、南関村の張執(zhí)信(チャン?ジーシン)氏から、墓を暴かれた後投げ捨てられた遺體を埋めたとの有力証言を得て、今回の発見(jiàn)につながった?,F(xiàn)在、遺骨は南皮県烈士陵園が暫定的に収容しているが、今年10月4日の張之洞の命日には墓を再建し、埋葬し直すという。(翻訳?編集/KT)
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