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紀(jì)元2世紀(jì)の石棺のレリーフ。ローマ兵と異民族の戦爭(zhēng)が記録されている。(視覚中國(guó))
西暦300年から600年、中國(guó)とローマは似たような歴史的狀況に直面していた。どちらも中央政権が衰退し、周辺エスニック集団の大規(guī)模な襲來に遭っていたのだ。
中國(guó)では、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五胡が次々と南下し、幾多の政権を建てた。ローマでは、西ゴート、東ゴート、ヴァンダル、ブルグンド、フランク、ランゴバルドなどのゲルマン部族が潮の如く領(lǐng)內(nèi)に押し寄せ、それぞれが「蠻族の王國(guó)」(barbarian kingdoms)を建てた。
しかし、似たような軌跡をたどった雙方の歴史はまったく異なる結(jié)果を生んだ。
中國(guó)の場(chǎng)合、五胡十六國(guó)のなかで最初に氐族の前秦が、後に鮮卑拓跋部の北魏が華北全域を統(tǒng)一、度重なる分裂と抗?fàn)帳悉ⅳ盲郡钺幛摔悉浃悉陜?nèi)的再編?統(tǒng)合を?qū)g現(xiàn)し、それまで正統(tǒng)を代表していた南朝とも融合、秦漢の中央集権大規(guī)模國(guó)家體制を引き継ぎ、胡漢融合の大統(tǒng)一王朝?隋唐の礎(chǔ)を築いたのである。
一方、いくつかの比較的強(qiáng)大な蠻族の王國(guó)に數(shù)百年間制覇された歐州は、フランクのように一つの王國(guó)が西歐をおおむね統(tǒng)一したこともあり、また、西ローマ帝國(guó)の衣鉢を継ぐ見込みもそこには十分あったが、結(jié)局は內(nèi)在する分割統(tǒng)治の論理のせいで個(gè)々の封建國(guó)家へと分裂していった。まがりなりにも「統(tǒng)一」が保たれていたとしたら、それはすべて「キリスト教會(huì)」の人心統(tǒng)合力のおかげである。
この歴史の分岐は、中國(guó)と西洋の歴史的歩みの違いを具現(xiàn)化することになった。その違いはエスニック概念から政治制度にまでおよぶ。なかでも文明理論の違いが一番のカギとなる。
南進(jìn)の戦い
中國(guó)とローマの運(yùn)命は、西暦89年の燕然山〔現(xiàn)モンゴルのハンガイ山脈。前漢時(shí)代より中國(guó)と匈奴の戦爭(zhēng)を象徴する地〕の役を機(jī)に大きく変わる。
この戦いを経て北匈奴は歐州へと西進(jìn)し、後にゲルマン諸部族がローマ國(guó)境內(nèi)に侵入する重要な推進(jìn)力になった(1)。一方、南匈奴は中原に南下し、五胡侵入の先駆けになる。
2017年、中國(guó)?モンゴル両國(guó)の考古學(xué)者が「燕然山の銘」を発見した。匈奴に完勝した漢の威徳を班固が作文し石に刻したものである。この石碑といえば「明犯強(qiáng)漢者、雖遠(yuǎn)必誅〔我が漢朝を犯す者は、遠(yuǎn)きにありても必ず誅せん〕」と歓呼するのが漢人としての意識(shí)を持っている人の常である。しかし、南匈奴の単于が最初に北匈奴の內(nèi)亂を察知し、自ら漢王朝に出兵を進(jìn)言したというのが歴史の真実である(2)。竇憲率いる4萬(wàn)6000の騎兵のうち3萬(wàn)は南匈奴人、殘り1萬(wàn)6000も半分は羌族だった(3)。漢王朝が中原に南下する遊牧エスニック集団を率い、共同で北匈奴を西に追いやったといえる。
これは後世もたびたび重視されてきた歴史の一幕である。世界の突厥學(xué)者が文化遺産の嚆矢に挙げる「キョル?テギン〔闕特勤〕石碑」の突厥碑文には、突厥可汗の悲哀と怨恨が読み取れる?!弗Εぅ哎毪悉胜继皮仁证蚪Mんで自分を攻めようとするのか。草原遊牧民はなぜいつも中原に移って暮らそうとするのか」(4)
これは遊牧社會(huì)內(nèi)の不協(xié)和音だろうか。そうではない。地理?気候でいえば、草原に寒波が到來するたびに北方の遊牧民は南に移動(dòng)する。資源の賦存量でいえば、草原地域が養(yǎng)える人口は農(nóng)耕地域のわずか10分の1、生きるために食糧、茶葉、絹?麻織物を中原から得ることや盛んに交易をおこなうことは遊牧民にとって必要不可欠だった。周辺エスニック集団に対する中原の強(qiáng)大な吸引力の一つが先進(jìn)的な農(nóng)業(yè)と手工業(yè)である(5)。最北のエスニック集団が西へと活路を求めたのと違い、漠南〔蒙古高原の砂漠地帯以南〕のエスニック集団はむしろ中原との融合を求めた。華北の経済?交通網(wǎng)を中原と共有する彼らは、飢饉の年に食糧を得るのも、低コストの交易をおこなうのもいっそう容易だった。社會(huì)経済の共同體が幾度も形成された所以である。こうして1500年の時(shí)を経るうちに、地理から経済まで、民俗から言語(yǔ)まで、そして文化から制度まで、最終的には東北アジア全域を包括する1個(gè)の政治共同體が形成されたのである。
燕然山の役以降、南匈奴は漢族の地に入り込み、その北部辺境で遊牧生活を営んだ。漢王朝の懐柔策により稅を免れたが、郡県制の統(tǒng)治は受け入れなければならなかった(6)。今日、寧夏、青海、內(nèi)モンゴル、陝西、山西の各省?自治區(qū)で南匈奴人の墓が発見されているが、漢式のものもあれば、草原の「頭蹄葬〔牛、馬、羊などの頭や蹄を副葬〕」もある。さらに青海省では諸侯に封ぜられた匈奴首領(lǐng)の駝鈕銅印「漢匈奴帰義親漢長(zhǎng)」が出土している(7)。胡漢の文化が融合していたことがわかる。南匈奴の南下と相前後して內(nèi)陸部に移動(dòng)したものに西北の氐と羌、東北の鮮卑、漠北の羯がある。三國(guó)時(shí)代後半は中原人口の急減により、魏も晉も絶えず五胡を「招撫」した。100年間で內(nèi)陸に移動(dòng)した五胡の數(shù)は數(shù)百萬(wàn)人、內(nèi)訳は匈奴が70萬(wàn)、羌が80萬(wàn)、氐が100萬(wàn)、鮮卑が250萬(wàn)である(8)。西晉の「八王の亂」後、華北総人口1500萬(wàn)人のうち漢族はわずか3分の1を占めていたにすぎない?!笣h化」はすなわち「同化」であり、「巨大エスニック集団」が人口の絶対的優(yōu)位に依拠しつつ「少數(shù)エスニック集団」の生活様式を変えたという誤った理解をする人もいる(9)。しかし、歴史の真実は異なる。五胡は軍事的に優(yōu)勢(shì)だっただけではなく、人口でも優(yōu)勢(shì)だった(10)。慣れ親しんだ習(xí)慣に従って「中原で放牧する」ことも、漢族を「胡化」することもまったく可能だった。しかし、彼らは自ら進(jìn)んで「漢化の道」を選んだのである。
漢化の道
漢化の道は南匈奴に始まる。
西晉を滅ぼし五胡最初の王朝を建てたのは南匈奴の劉淵である。彼は匈奴の南単于である羌渠の曽孫で、漢と匈奴の姻戚関係政策により劉氏に改姓した。貴族の子弟として晉朝宮廷に遊學(xué)した劉淵は、『詩(shī)経』『尚書』を読み、『史記』『漢書』を?qū)Wび、『春秋左氏伝』と『孫呉兵法』をとくに好んだという。劉淵は山西省南部を割拠して帝位についたにもかかわらず、北方の先祖伝來の事業(yè)を再興しようとはせず、「漢」を國(guó)號(hào)として天下を統(tǒng)一することに固執(zhí)した。そのため自らを劉邦〔漢の高祖〕、劉秀〔漢の光武帝〕、劉備の後継者と名乗り、「漢氏の甥」「亡き兄の後を弟が継ぐ」〔劉淵の先祖?冒頓が漢王朝と兄弟の契りを結(jié)び、皇族を妻にしていた〕ことの合法性を証明するために、「どうしようもない人物」といわれた劉禪〔劉備の子、蜀漢2代皇帝〕の位牌を祀ることまでした。
しかし、劉淵の権力は長(zhǎng)続きせず、羯の石勒によって滅ぼされた。「鼻が高く髭が濃い」羯族はサカ族に屬し、かつては「別部」「雑胡」として匈奴に従屬していた。遊牧貴族として宮廷にまぎれ込んだ劉淵と異なり、石勒は農(nóng)奴出身、社會(huì)の底辺を彷徨っていた。しかし、石勒もまた漢の文化を愛好した。字が読めないのに「高尚な文學(xué)趣味」をもち、好んで『漢書』を人に読んでもらったという。息子の石弘は父の差配ですっかり読書人となった。しかし、石勒も志半ばで斃れ、華北統(tǒng)一の大事業(yè)は殘忍な子孫によって途絶させられた。後趙〔石勒の建てた國(guó)名〕の廃墟からは、鮮卑慕容部の前燕と氐族の前秦が生まれている。
五胡政権のなかで最初に華北を統(tǒng)一したのは前秦の苻堅(jiān)である。前秦は秦の関中〔現(xiàn)在の陝西省西安市を中心とする一帯〕を拠點(diǎn)に発展し、一時(shí)その領(lǐng)土は「東極滄海、西併亀茲、南包襄陽(yáng)、北盡沙漠〔東の果ては海、西は亀茲(クチャ)を併合、南は襄陽(yáng)を含み、北は砂漠に至る〕」といわれた。しかし、晉朝打倒を急いだあまりわずか數(shù)年で滅亡した。前秦の「屍」は、羌姚部の後秦、鮮卑慕容部の後燕、匈奴赫連部の大夏へと分裂していった。
入り亂れた爭(zhēng)いのなか、鮮卑拓跋部がモンゴル草原から一挙に打って出て、群雄を打ち破り、國(guó)號(hào)を魏〔北魏〕と定めた?;实?代にわたって國(guó)家経営に精勵(lì)し、100年以上混亂を極めた華北をついに統(tǒng)一した。後に北魏は北周と北斉に分裂するが、再び北周によって統(tǒng)一され、しかもこれが全國(guó)統(tǒng)一王朝?隋唐の礎(chǔ)になったのである。
前秦と北魏―この二つは中國(guó)全土の統(tǒng)一に最も近づいた政権であり、漢化のレベルが最も高く、漢化のスタンスを最も堅(jiān)持した政権である。
苻堅(jiān)は代々酒好きの氐族家庭に生まれ、日々戦爭(zhēng)に明け暮れる豪傑だったにもかかわらず、子どもの頃から経書、史書を耽読していた。帝位に即してからは文教政策に力を入れ、自ら太學(xué)〔官吏養(yǎng)成の最高學(xué)府〕に赴き、官吏の卵に経書の試験をおこなっていたという。道徳上は「周孔微言〔周公と孔子の奧深い道理〕」に恥じることなく、実踐上は「漢之二武〔武帝と光武帝〕」を超えるのが彼の目標(biāo)だった。苻堅(jiān)は西域を征服しても汗血馬〔千里を走り、ひとたび走れば血の汗を流すという名馬〕を送り返し、この名馬目當(dāng)てに大宛國(guó)〔フェルガナ〕を攻めた武帝より自分の方がワンランク上であることを示そうとした。また、東晉を攻撃しながらその君臣のために朝廷ポストを用意し、彼らの邸宅を補(bǔ)修、「興滅継絶〔滅亡した國(guó)を復(fù)興し、絶えた家を継ぐ〕」の周政に倣おうとした。鮮卑慕容部を捕虜にしても決して殺そうとはせず、慕容暐と慕容垂を臣下にとりたてることもしている。隠れた危険は取り除くべしとあまたの人が進(jìn)言しても、苻堅(jiān)は「徳を以て人を従える」という範(fàn)をうちたてることにこだわった(11)。果たせるかな、鮮卑の豪族たちは苻堅(jiān)が淝水の戦いに敗れるやいなや反旗を翻し、後燕と西燕を建てることになる?!溉柿x」に対する苻堅(jiān)のこだわりぶりは「不肯半渡而撃〔半ば渡らしめて撃つことを肯せず。仁義にもとる戦いを好まないこと〕」の宋?襄公だと皮肉られたこともある。
前秦の滅亡は「行き過ぎた漢化」のせいだという人もいるが、後の鮮卑拓跋部?北魏は華北を統(tǒng)一してからむしろ前秦以上に徹底して「漢化」を推し進(jìn)めた?!笧閲?guó)之道、文武兼用〔國(guó)を?yàn)椁啶毪蔚坤衔奈浼嬗盲胜辍场工趣系牢涞?拓跋珪の言葉である。太武帝?拓跋燾は漢人士大夫を數(shù)多く重用し、河西〔黃河上流の西、甘粛省一帯〕の學(xué)者を首都に移住させ、鮮卑の子弟に儒教経典を?qū)Wばせた?!袱长Δ筏贫啶稳恕─瑥预蚰イ长趣藙?lì)み、儒學(xué)が再興した」と伝えられている。孝文帝?拓跋宏の漢化政策はもっと「體制的」だった。洛陽(yáng)に遷都し、西晉?東晉、南朝の官僚制度を模倣、鮮卑の家柄を定め〔姓族分定、家格を定めて任官の基準(zhǔn)にした〕、胡姓を漢姓に、胡語(yǔ)を漢語(yǔ)に変えるよう命じた。そして、自ら率先して同族子弟を漢族と通婚させた。
北魏が華北を統(tǒng)一できたのも、そこから発展した北周と隋が中國(guó)全土を統(tǒng)一できたのも、すべて「漢の習(xí)俗?風(fēng)習(xí)に改め、漢の伝統(tǒng)儀禮を?qū)g施」したからだという歴史家がいるが、必ずしもそうとは限らない。漢の風(fēng)習(xí)、漢の儀禮というが、自然にそれを備えていた南朝は中國(guó)を統(tǒng)一することができなかった。北魏がうまくいった最も重要な要因は、「大一統(tǒng)」精神の政治制度改革を遂行し、秦漢の儒法國(guó)家體制を再創(chuàng)造したことにある。
統(tǒng)一の再創(chuàng)造
西晉崩壊後の天災(zāi)、人災(zāi)で、末端行政は壊滅狀態(tài)だった。華北の至る所に「塢堡〔村人達(dá)が自衛(wèi)のために築いた砦または防禦用の壁に囲まれた集落〕」が築かれ、人々は強(qiáng)力な豪族の下に集まり自衛(wèi)していた。戦亂は土地の荒廃を招き、流民化する者がいる一方で、橫暴な豪族がこの機(jī)に乗じて広大な土地を暴力的に占拠した。貧しい者はますます貧しくなり、富める者はますます富む狀態(tài)だった。
485年、北魏は均田制改革を?qū)g施、無主の荒地をいったん國(guó)有にしてから貧民に均等に配分した。これらの土地には「露田」と「桑田」がある?!嘎短铩工系刈猡螌澫螭趣胜胩锂xで、死亡したときに國(guó)に返還、そのあと國(guó)が次の世代に再分配する。一方「桑田」は桑や麻などの栽培地で、返還不要、子孫に継がせることを許した。さらに均田制には、老人や子供、障害者や寡婦に対する土地支給にも定めがあった。この制度が実施されて以降、たしかに強(qiáng)者は依然として強(qiáng)者のままだったが、弱者もまた自分の足場(chǎng)となる土地を得た。北魏から時(shí)代を下ること唐の中期、貞観の治?開元の治の土地制度も、その基礎(chǔ)はすべて均田制である。
均田制と同時(shí)におこなわれた重要な改革が三長(zhǎng)制である。その矛先は亂世の豪族割拠だった。強(qiáng)力な豪族はすなわち「宗主」であり、朝廷支配は末端に屆かず、「宗主」を通じて間接的に支配するしかなかった。これを「宗主督護(hù)制」という(12)。三長(zhǎng)制はこれを廃止し、秦漢式の「編戸斉民〔戸籍を編んで民の情報(bào)を整理する〕」すなわち末端行政機(jī)構(gòu)を再建するものだった(5戸を1隣、5隣を1里、5里を1黨として、それぞれに隣長(zhǎng)?里長(zhǎng)?黨長(zhǎng)を置いた)(13)。加えて村民から郷官〔郷村の官吏〕を選抜し(14)、徴稅と民政全般に責(zé)任をもたせた。
均田制を立案したのは漢族の儒者である李安世、三長(zhǎng)制を立案したのも漢人士大夫の李沖である。均田制を通じて北魏は、充分な戸籍制度、租稅制度、兵力供給源を得た。三長(zhǎng)制を通じて封建的統(tǒng)治を終わらせ、末端行政機(jī)構(gòu)を再建した。そして官僚制を通じて中央集権的な行政體系を復(fù)活させた。「漢衣を著る」「漢の儀禮に改める」といった形式よりもこれらのほうが「漢制〔漢の制度〕」の本質(zhì)である。西晉滅亡から170年、「漢制」はなんと少數(shù)民族王朝の手で中原に蘇ったのである。まさに歴史學(xué)者の銭穆が「元來、部族的封建制度をもって立國(guó)した北魏だったが、三長(zhǎng)制、均田制の実施に及んで、氏族封建制から郡県制統(tǒng)一國(guó)家へと次第に変わっていった。それにあわせて胡漢の力関係も逆転していった」(15)と言ったとおりである。わずか30年の間に、北魏の人口と兵力は南朝を凌駕した。520年、北魏の人口は西晉太康年間の倍、3500萬(wàn)に迫った(16)。北魏の軍隊(duì)には大量の漢族農(nóng)民が加わり、「戦をするのは鮮卑、田を耕すのは漢族」という以前の住み分けを打破した。
北魏が「漢制」を引き継いだ頃、東晉と南朝のそれはむしろ形骸化に向かっていた。後漢に始まる察挙制〔郷挙里選〕は、四世三公〔四世代にわたって三公すなわち高位高官を輩出する〕の経學(xué)門閥と槃根錯(cuò)節(jié)〔解體不可能なほど社會(huì)にはびこっている〕の官僚豪族を生み出し、魏晉の時(shí)代になってそれが門閥政治へと発展していった。東晉〔司馬?!痴丐螛淞ⅳ厦T貴族〔特に王導(dǎo)、王敦ら王氏一族〕の支持に負(fù)うところが大きかったため、「王馬〔王氏と司馬氏〕、天下を共治す」という狀況が出來した。東晉?南朝の時(shí)期にはさらに奇異な狀況が生まれた。華北から南下してきた流民の數(shù)は1000萬(wàn)を超え、また、江南経済は繁栄を失うことがなかったにもかかわらず、「呉から陳までの六朝、300年の長(zhǎng)い治世にあって、江南の人口は戸籍上ほとんど増えていない」(17)。南に流れてきたこうした人々は、名門の家柄を捨てて使用人となり、政府に登録されなかったため、朝廷は一方で人口を把握できず、他方で多くの稅源を失った。門閥政治は清談を奨勵(lì)し、優(yōu)雅このうえない魏晉の気風(fēng)と玄學(xué)〔道儒融合の思弁哲學(xué)〕を生み出した。社會(huì)の衰退と蕓術(shù)のピークが同時(shí)に訪れたのである。
陳寅恪〔歴史學(xué)者〕も銭穆も、後の隋唐王朝は北朝の政治制度と南朝の禮楽文化を全體的に継承したと考える。南朝の舊套墨守に比べれば、北朝の均田制や府兵制などにみられる革新の方が「漢制」の「大一統(tǒng)」精神に合致していた。隋が初の全國(guó)戸籍調(diào)査(団貌)をスムーズに実施できたのも、科挙制度を創(chuàng)設(shè)できたのも、こうした精神のおかげである。陳寅恪は「塞外〔萬(wàn)里の長(zhǎng)城以北〕の粗野だが有能な血が、文化的に退廃した中原の體に注がれた」(18)というが、注がれたのは「血」というよりもむしろ改革と革新の精神であろう。
南朝に対する北朝の勝利は、文明に対する野蠻の勝利ではなく、「大一統(tǒng)」精神を引き継ぎ得た者の勝利であり、硬直的で守舊的な「舊漢制」に対する、胡漢雙方の要素を同時(shí)に取り入れた「新漢制」の勝利である。名門に対する態(tài)度も同様である。華北は江南より現(xiàn)実的な政治力を重視した。北朝は官吏の考課で実績(jī)をみたからである。経學(xué)もしかりだ。北朝は実學(xué)を重視し、南朝は玄學(xué)を重視した。儒家にしてもそうだ。北朝は中央でも末端でも大量に登用したが、南朝は末期になってようやく寒人〔低い家柄出身の士族〕を官吏、軍師に取り入れただけである。
南朝にも決してみるべきものがなかったわけではない。後に隋唐が採(cǎi)用した「三省六部制」の原型は南朝発祥である。また、東晉にしても南朝にしても「大一統(tǒng)」の理念を一度もいい加減にしたことがない。東ローマに比べればその點(diǎn)は強(qiáng)固だった。ビザンツ帝國(guó)千年の歴史で、西方統(tǒng)一のための出兵は事実上たった1回だった。しかし、東晉?南朝の272年間、東晉の祖逖、庾亮、桓溫、謝安にはじまり宋の武帝?劉裕と文帝?劉義隆の父子、梁の武帝?蕭衍、陳の宣帝?陳頊…… 北伐は10回を超える。いずれも成功することはなかったが、誰(shuí)一人として公に斷念することはなかった。夏華の大地ではいかなる統(tǒng)治者も、「大一統(tǒng)」を放棄しようとした瞬間にその合法性を失うも同然だったのである。
漢化とローマ化
五胡があくまで「漢化」にこだわったのは、漢文明の神髄が長(zhǎng)期安定的な大規(guī)模政治體の構(gòu)築にあったからである。遊牧民は軍事的には優(yōu)位だったとはいえ、漢文明が歴史的に培ってきた制度を吸収しなかったら、「正統(tǒng)」と稱して憚らない南朝に勝利できなかっただろう。「漢制」は「漢族」の慣習(xí)法ではなく、一切の私心を排した理性的な制度である。異民族と漢族の區(qū)別は血筋や習(xí)俗によるのではなく、徳と制度によるものだ。漢族だからといって「漢制」の精神を継承し発揚(yáng)することに消極的ならば、華夏の継承者たる資格を失う。
「漢化」は「漢族によって同化させられる」という意味ではなく、「漢制」を取り入れるという意味である。前漢初期に「漢族」は存在しない。あったのは「七國(guó)〔呉?楚?趙など七つの諸侯王國(guó)〕の人」だけである。司馬遷は『史記』を書く際、七國(guó)の區(qū)別を使って各地の人々のさまざまな性質(zhì)を描いた。「漢族」が「漢王朝臣民」の自稱に変化したのは漢の武帝以降である。なぜなら武帝が、秦の法家制度、魯の儒家思想、斉の黃老思想と管子の経済思想、楚の文化蕓術(shù)、韓?魏の縦橫刑名の學(xué)、燕?趙の軍事制度、これらをすべて一體的に融合し、「大一統(tǒng)」の「漢制」をつくったからである。以來、こうした制度や文明にアイデンティティをもつ人を「漢族」というようになった。政治制度をもって國(guó)家=民族という概念を構(gòu)築する―「漢族」はその最も早い実踐例だといえる。こうした一連の制度は秦漢に始まるが、以降は中華世界の専有物になることなく、東アジア全域の古典文明遺産になった。漢字も単なる「漢族の文字」ではなく、東アジア古典文明の重要な伝達(dá)手段である。「大一統(tǒng)」を成し遂げた経験と教訓(xùn)はすべて漢文の法典と史書に記録されているので、それを?qū)Wばずして先業(yè)を引き継ぎ発展させることはできない。五胡が自発的に漢化したのは、決して自分たちの祖先を忘れたからでもなければ自己を卑下したからでもない。部族政治の先にある、それよりもはるかに大きなスケールの政治體を建設(shè)する壯大な志をもっていたからである。
「漢化」とよく似た概念に「ローマ化」がある。古代ローマの制度はローマ人の創(chuàng)造であるが、地中海文明の古典的なありようになった。ラテン語(yǔ)は「ローマ人の言語(yǔ)」ではなく、歐州古典文化の伝達(dá)手段である(19)。ゲルマン「蠻族の王國(guó)」の多くが口語(yǔ)としてのラテン語(yǔ)を放棄し、ゲルマンの各エスニック集団が部族?方言の違い故に「別々の王國(guó)」「別々の言語(yǔ)」へと分裂していったとき、まさにそのときからラテン語(yǔ)を伝達(dá)手段とするローマ文明は野蠻の大波にのまれ、カトリック教會(huì)の権力のもとに埋もれていったのである。ローマ法が復(fù)活するのはようやく12世紀(jì)になってから(20)、「人文主義」と「國(guó)家理性」(21)が再発見されるのは14世紀(jì)から15世紀(jì)にかけてのルネサンス期になってからである。しかも「再発見」の源は歐州本土にない。十字軍がコンスタンティノープルから古代ギリシャ?ローマの手稿を持ち帰らなければ、アラビア人がプラトンやアリストテレスの古典を翻訳しなければ、歐州でルネッサンスが興るのは難しかっただろうし、啓蒙運(yùn)動(dòng)もなかっただろう。つまり、周辺エスニック集団と「本拠地」の民が共同で後世に伝えた漢文明とは異なり、ギリシャ?ローマの古典文明は外部世界からの「逆輸入」で取り戻されたといえる。
(1)北匈奴西進(jìn)後の変遷にはいまなお議論がある。ただ、北匈奴と後のフン族を直接結(jié)びつけて考える學(xué)者は多い。清末の歴史學(xué)者?洪均は『元史訳文補(bǔ)正』で、西洋の古い書物に出てくる「フン族」と匈奴のイメージが非常によく似ていると指摘している。18世紀(jì)、フランスの學(xué)者ド?ギーニュはハンガリー人と匈奴の共通點(diǎn)を発見、『フン族通史』でハンガリー人の祖先は遠(yuǎn)方よりやってきた北匈奴だという説を提起し、ギボンも『ローマ帝國(guó)衰亡史』でこの説を採(cǎi)り、ドイツの著名な中國(guó)學(xué)者ヒルトも『フン族研究』でこの説に賛同している。ベルンシュテイン『ケンコール古墳群』と江上波夫「匈奴?フン同族論」もそれぞれ古墳のDNA分析、フン族活動(dòng)地域から出土した漢式/匈奴式の副葬品を通して同族論に有力な支持を與えている。內(nèi)田吟風(fēng)「フン匈奴同族論研究小史」〔中國(guó)語(yǔ)訳〕『北方民族史與蒙古史訳文集』雲(yún)南人民出版社、2003年所収參照。
(2)『後漢書?南匈奴伝』に、章和2年〔88年〕南単于が次のように上奏したとある。「北虜大亂、加以飢蝗、降者前后而至」「今所新降虛渠等詣臣自言:去歳三月中発虜庭、北単于創(chuàng)刈南兵、又畏丁令、鮮卑、遁逃遠(yuǎn)去、依安侯河西;……臣與諸王骨都侯及新降渠帥雑議方略、皆曰:宜及北虜分爭(zhēng)、出兵討伐、破北成南、併為一國(guó)、令漢家長(zhǎng)無北念」?!横釢h書?南匈奴伝』中華書局、1965年、P2952。
(3)「憲與秉各將四千騎、及南匈奴左穀蠡王師子萬(wàn)騎、出朔方鶏鹿塞;南単于屯屠河、將萬(wàn)余騎、出満夷穀;度遼將軍鄧?guó)櫦翱F辺義従羌胡八千騎、與左賢王安國(guó)萬(wàn)騎、出稒陽(yáng)塞。皆會(huì)涿邪山」。範(fàn)曄撰、李賢他注『後漢書?竇憲伝』中華書局、1965年。
(4)「南方唐家世為吾敵、北方之?dāng)?、則為Baz可汗及九姓回鶻;黠戛斯、骨利干、三十姓韃靼、契丹及Tatabi、皆吾敵也」「噫、吾突厥民衆(zhòng)、彼悪人者將従而施其煽誘、曰:『其遠(yuǎn)居者、彼等予以悪贈(zèng)品、其居近者、予以佳物』。彼等如此誘惑之。愚人為此言所動(dòng)、遂南遷與之接近、爾輩中在彼淪亡者、何可勝數(shù)」。韓儒林『突厥文闕特勤碑訳注』北平國(guó)立北平研究院総弁事処出版課、活版本、1935年。
(5)費(fèi)孝通「中華民族的多元一體格局」『北京大學(xué)學(xué)報(bào)(哲學(xué)社會(huì)科學(xué)版)』1989年第4期。
(6)『晉書?四夷列伝』中華書局、1984年、P2548。
(7)1973年、青海省大通県後子河郷上孫家寨村の漢式古墳群1號(hào)墓から出土した角形の駝鈕銅印?!笣h匈奴帰義親漢長(zhǎng)」の8文字が篆書體で彫られており、後漢中央政府が匈奴首領(lǐng)に贈(zèng)った官印とされる。「帰義」とは、漢王朝が配下の周辺エスニック集団首領(lǐng)に與えた稱號(hào)。
(8)朱大渭「十六國(guó)北朝各少數(shù)民族融入漢族総人口數(shù)考」『朱大渭説魏晉南北朝』上海科學(xué)技術(shù)文獻(xiàn)出版社、2009年。
(9)『Racial and Ethnic Relations』Boston, Holbrook 1970年、P117~P119。
(10)江統(tǒng)『徒戎論』によると、當(dāng)時(shí)の関中は胡漢人口比が1対1だったが、東北地區(qū)になると胡族の人口比がさらに高くなった。
(11)「修徳則禳災(zāi)。茍求諸己、何懼外患焉」。『晉書?苻堅(jiān)載記』
(12)「魏初不立三長(zhǎng)、故民多蔭附、蔭附者皆無官役、豪強(qiáng)征斂倍于公賦」?!何簳?食貨志』
(13)『資治通鑑』巻138。
(14)「取郷人強(qiáng)謹(jǐn)者」?!嘿Y治通鑑』巻。
(15)銭穆『國(guó)史大綱』商務(wù)印書館、1996年、P336。
(16)『魏書?地形志』総序。
(17)唐長(zhǎng)孺『魏晉南北朝隋唐史三論』武漢大學(xué)出版社、1992年、P88。
(18)陳寅恪『金明館叢稿二編』三聯(lián)書店、2001年、P344。
(19)歐州諸王國(guó)は8世紀(jì)から9世紀(jì)にかけて各自の方言と書面語(yǔ)を生み出していたが、それでも中世末まで政府公用語(yǔ)、記録言語(yǔ)、教會(huì)言語(yǔ)はラテン語(yǔ)であり、ゲルマンの書面語(yǔ)は補(bǔ)助的に用いられていたにすぎない。ピーター?バーク著、李霄翔?李魯?楊豫訳『語(yǔ)言的文化史:近代早期歐洲的語(yǔ)言和共同體』北京大學(xué)出版社、2007年、P107。
(20)1135年、イタリア北部でユスティニアヌス帝『學(xué)説彙纂』の原稿が再発見されたのをきっかけに「ローマ法復(fù)興運(yùn)動(dòng)」が興った。
(21)マキャベリの「國(guó)家理性」(Ragione di Stato)説。マキャベリ著、藩漢典訳『君主論』商務(wù)印書館、1985年、P18。
※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編」の「中國(guó)の五胡侵入と歐州の蠻族侵入(1)五胡侵入」から転載したものです。
■筆者プロフィール:潘 岳
1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史學(xué)博士。國(guó)務(wù)院僑務(wù)弁公室主任(大臣クラス)。中國(guó)共産黨第17、19回全國(guó)代表大會(huì)代表、中國(guó)共産黨第19期中央委員會(huì)候補(bǔ)委員。
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