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漢朝の體制が最終的に固まるのは武帝〔劉徹〕の時(shí)代である。中國(guó)の「大一統(tǒng)」の政治構(gòu)造を構(gòu)築した漢の武帝。(CNS Photo)
一體多元の「大一統(tǒng)」
中國(guó)の前漢王朝と共和政ローマは同時(shí)代に存在した。新王朝の初期、文帝?景帝と続いたわずか40年の間に、漢朝は「皇帝が同じ毛色の馬を4頭揃えられない〔皇帝用の四頭立て馬車を用意できないという意味、それほど困窮していたということ〕」(7)狀態(tài)から食糧があり余っている狀態(tài)になった。これだけ急速に豊かになったのはなぜか。朝廷が同一の文字、貨幣、度量衡を利用して巨大な市場(chǎng)を創(chuàng)出し、商取引を通じて各地方の経済を全國(guó)的に結(jié)び付けたからだと司馬遷はいう。分業(yè)は商品交換を生み出し、この「交換価値」が社會(huì)全體の富を増やし、同時(shí)に農(nóng)業(yè)生産性の飛躍的向上を促したのである。このプロセスを通じて土臺(tái)となり前提となったのが天下の「大一統(tǒng)」だった(8)。
漢朝の體制が最終的に固まるのは武帝〔劉徹〕の時(shí)代である。武帝は二つの大事業(yè)で中國(guó)に貢獻(xiàn)した。一つは、地方諸侯の勢(shì)力を弱體化させ中央権力を郡県に直通させたこと、そしてこれを土臺(tái)に「大一統(tǒng)」の儒家政治を確立したことである。もう一つは、國(guó)家の版図の基礎(chǔ)を築いたことである。
儒家政治の主な基礎(chǔ)は魯の國(guó)の年代記に孔子が筆削した『春秋』である。後世に流布している多くの版のなかで、前漢の儒學(xué)者?董仲舒が高く評(píng)価した『春秋公羊伝』、すなわち公羊?qū)W派が最大の影響力をもっていた。
公羊?qū)Wの核心は「大一統(tǒng)」である。その最もユニークなところは、皇帝の権力を完成させると同時(shí)にそれに制限を加えたことだろう。中國(guó)の「天に奉じて運(yùn)を承る〔天の意に従い天命を受ける〕」は西洋の「王権神授」説とは違う。ローマの「皇帝神格化」は民意と無関係だった。しかし、古代中國(guó)では天の意思は民意を通じて體現(xiàn)されねばならなかった。人民にとって良き天子であってはじめて「天」は皇帝を「天子」と認(rèn)める。人民にとって好ましくなければ天は皇位を別の人間に賦與する。こうして天子、天命、民意の三つは抑制と均衡の関係を形づくる。つまり、天子は天下を司り、その天子は天命に従うが、天命はすなわち民意ということだ。権力には責(zé)任がともない、責(zé)務(wù)を盡くさなければその権力は合法性を失うということがここで強(qiáng)調(diào)されている。
漢の武帝は董仲舒の政治理論を受け入れ、手始めに次のことを官衙に命じた。時(shí)勢(shì)に明るく孝〔父母への孝順〕であり廉〔清廉潔白〕である寒門〔身分の低い貧しい家柄〕の儒者を民間から探すこと、そしてこれを側(cè)近として皇帝に推挙することである。このため、武帝の時(shí)代には平民出身の名臣が數(shù)多く輩出した。また、これ以降、官途に入り?yáng)堰_(dá)するには儒家倫理の修得が不可欠になった。
文官政治の察挙制度〔推薦を主とする官吏登用制度〕もこの時(shí)期に始まった。門閥富豪にだけ頼っていては天下を治めることはできず、むしろ道理をわきまえ、道徳心にあふれ、知識(shí)と責(zé)任感に秀でた下層の人物に権力を分與することではじめて民心を束ね政権基盤を拡充することができる―武帝にとってこれは自明のことだった。武帝は儒者に官吏を兼ねさせることで「統(tǒng)治」と「教化」の抱合を?qū)g現(xiàn)した。このときから地方官吏は行政に責(zé)任を負(fù)うだけでなく、教育にも責(zé)任を負(fù)わなければならなくなった。
さらに、武帝は文官を統(tǒng)制するために「刺史制度」を設(shè)けた。中下級(jí)官吏の一定數(shù)を刺史とし、不定期に地方行政の督察にあたらせたのである(9)。地方豪族の大土地所有をけん制することと、地方官吏の職業(yè)的モラルを維持することが目的だった。これは歴代中央監(jiān)察制度の端緒である。
劉徹〔武帝〕の「百家を罷黜し、獨(dú)り儒術(shù)のみを尊ぶ〔諸子百家を排斥して儒家思想だけを尊ぶ〕」は実際には間違って理解されている。武帝は董仲舒だけではなく、法家の張湯、商人の桑弘羊、牧畜業(yè)主の卜式、ひいては匈奴の太子?金日磾をも登用している(10)。みな『春秋』を読んでいたとはいえ儒者ではない。前漢政治は思想から実踐にいたるまですべてが多元的である。多元的だというのなら、なぜ儒家思想で縛りをかける必要があるのか。それは、一體性がなく多元的な勢(shì)力均衡論のみに頼っていると最後は必ず分裂するからだ。逆に「大一統(tǒng)」さえあれば、多元的な思想を一つの共同體內(nèi)に共存させることができる。
多元一體の「大一統(tǒng)」こそ漢の精神なのである。
「天下人心」を映し出す鏡―史官制度
中華文明は「公権力」から「絶対的自由」を保った西洋型の知識(shí)人を生み出すことができなかったという説がある。その際、司馬遷が西洋型に近い唯一の例外だともいわれる。曰く、司馬遷は董仲舒を師と仰ぎ儒學(xué)を?qū)Wんだが、むしろ道家の「無為をして治める〔人為によらず天下を治める〕に敬服しており、自由放任の商業(yè)社會(huì)のほうを好んだ?!菏酚洝护扦洗炭汀b客、商人に王侯將相と同じ「列伝」の待遇が與えられている。勇気をもって武帝を批判し(11)、自ら名乗り出て濡れ衣を著せられた大臣を擁護(hù)し、それが原因で刑罰に処せられた、と。
しかし、結(jié)局のところ司馬遷は世俗を超越したギリシャの學(xué)者と同じではない。司馬遷は武帝の政治流儀を好まなかったけれども、地方勢(shì)力弱體化には賛辭を惜しまず、國(guó)家騒亂をなくす抜本的措置だと考えた(12)。生涯を通じて貧しかったが金持ちに不平不満を抱いたことがなく、商人の富はほとんどが経済法則を把握し懸命に働いたおかげで得たものだと考えた(13)??崂簟卜à送颏辘迫摔蜃铯岁垽?、容赦なく処罰した役人〕に痛めつけられても法家に遺恨を抱かず、それどころか法家の政策がうまく実行されれば社會(huì)の長(zhǎng)期安定を維持できるとさえ考えた(14)。
司馬遷は體制に対して合理的な批判を展開したが、それらはすべて個(gè)人的苦痛から出たものではない?!?jìng)€(gè)人の得失」は眼中になく、全體の利益だけを重視したからである。ことさらに自由を追い求めたが故に公権力を批判したのではなく、それが天下にとって有害と考えたから批判したのである。稱賛もそうだ。公権力の暴威に屈したからではなく、それが天下にとって有益だと考えたから稱賛したのである。個(gè)人の自由と集団の責(zé)任は司馬遷のなかで弁証法的に統(tǒng)一されていた。これは、中國(guó)知識(shí)人が西洋知識(shí)人と區(qū)別される際立った特徴である。
司馬遷は『史記』で武帝を批判しただけではなく、漢朝を開いた皇帝?劉邦の邪推や呂后による政治の亂れ、功臣名將の欠點(diǎn)も書き、漢朝成立を少しも神聖視するところがなかった。にもかかわらず、漢朝は『史記』を公式に集成した國(guó)史として後世に伝えていった。すべてを積極的に受け入れる意思と自己批判の精神がなければできないことである。漢朝は皇帝を評(píng)価する権限を史官に與えた。歴史は中國(guó)人の「宗教」に相當(dāng)し、歴史の評(píng)価は宗教裁判に相當(dāng)する。この原則は歴代の王朝に引き継がれていった。
華夏の正統(tǒng)は中華の道統(tǒng)〔本來、儒學(xué)の道を正統(tǒng)とする考え方を指すが、ここでは広く倫理的、政治的規(guī)範(fàn)の意〕である。大規(guī)模政治體が長(zhǎng)期にわたって安定するには、社會(huì)の各集団、各階層がこの道統(tǒng)を価値観として共有しなければならない。中華の道統(tǒng)の核心は中道、寛容、平和であり、それはある種の原則、境地、法則、価値を體現(xiàn)したものだ?;实郅槌济瘠摔い郡毪蓼?、社會(huì)階層のすべてが各々の道に従わなければならない?!腹工韦郡幛杆健工韦郡幛?、「大一統(tǒng)」の維持か分裂か、正しい道は高々と掲げられており、だれもその「道」というものから逃れることはできない。
(7)韓兆琦訳注『史記?平準(zhǔn)書』中華書局、2010年、P2344。
(8)前漢王朝が成立した年、中央が直接統(tǒng)治していたのは15の郡にすぎず、これは全國(guó)のわずか3分の1だった。他方、斉、楚、呉のような大諸侯は5~6の郡と數(shù)十の都市を擁していた。景帝の時(shí)代には呉楚七國(guó)の亂が起こり、武帝の時(shí)代にも淮南王、衡山王の亂があった。
(9)「一條,強(qiáng)宗豪右,田宅踰制,以強(qiáng)凌弱,以衆(zhòng)暴寡。二條,二千石不奉詔書,遵承典制,倍公向私,旁詔守利,侵漁百姓,聚斂為姦。三條,二千石不恤疑獄,風(fēng)厲殺人,怒則任刑,喜則任賞,煩擾苛暴,剝戮黎元,為百姓所疾,山崩石裂,妖祥訛言。四條,二千石選置不平,茍阿所愛,蔽賢寵頑。五條,二千石子弟恃怙栄勢(shì),請(qǐng)託所監(jiān)。六條,二千石違公下比,阿附豪強(qiáng),通行貨賂,割損政令」顔師古注『漢書』中華書局、1999年、P623~P624?!舶俟俟浔淼谄呱稀肝涞墼馕迥瓿踔貌看淌?,掌奉詔條察州」につけられた顔師古の注で、「六條問事」といわれる。一條で強(qiáng)宗豪右すなわち豪族の、二條以下は二千石すなわち郡太守の不法行為を列挙しており、これを監(jiān)察対象とした〕
(10)「卜式拔於芻牧,弘羊擢於賈豎,衛(wèi)青奮於奴僕,日磾出於降虜,漢之得人,於茲為盛。儒雅則公孫弘、董仲舒、兒寬,篤行則石建、石慶。質(zhì)直則汲黯、卜式。推賢則韓安國(guó)、鄭當(dāng)時(shí)。定令則趙禹、張湯,文章則司馬遷、相如,滑稽則東方朔、枚皋,應(yīng)對(duì)則嚴(yán)助、朱買臣,曆數(shù)則唐都、洛下閎,協(xié)律則李延年,運(yùn)籌則桑弘羊,奉使則張騫、蘇武,將率則衛(wèi)青、霍去病,受遺則霍光、金日磾,其餘不可勝紀(jì)」顔師古注『漢書』中華書局、1999年、P1998~P1999?!补珜O弘卜式兒寬伝第二十八からの引用、傍線は人物名でいずれも武帝が登用した官吏。それぞれの出自や業(yè)績(jī)が書かれている〕
(11)韓兆琦訳注『史記?汲鄭列伝』中華書局、2010年、P7100。
(12)韓兆琦訳注『史記?漢興以來諸侯王年表』中華書局、2010年、P1492。
(13)韓兆琦訳注『史記?貨殖列伝』中華書局、2010年、P7662。
(14)韓兆琦訳注『史記?秦楚之際月表』中華書局、2010年、P1437。
※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編」の「秦漢とローマ(3)中華道統(tǒng)の礎(chǔ)を築いた前漢王朝」から転載したものです。
■筆者プロフィール:潘 岳
1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史學(xué)博士。國(guó)務(wù)院僑務(wù)弁公室主任(大臣クラス)。中國(guó)共産黨第17、19回全國(guó)代表大會(huì)代表、中國(guó)共産黨第19期中央委員會(huì)候補(bǔ)委員。
著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編 購(gòu)入はこちら
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