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日本の華字メディア?日本華僑報(bào)は8日、日本で學(xué)んだ中國(guó)人留學(xué)生による手記を掲載した。
日本の華字メディア?日本華僑報(bào)は8日、日本で學(xué)んだ中國(guó)人留學(xué)生による手記を掲載した。以下はその概要。
「日本人は非情で悪どい…」。以前はこうした言葉をよく耳にした。私は中立的な立場(chǎng)だが口には出さない。歴史があるから。ここでは、私が日本で知り合った人生初の日本人の友人について書こうと思う。
この日本人の友人とは、私が留學(xué)中にアルバイトをしていた日本料理店の店長(zhǎng)だ。自分はラッキーだったと思う。日本に初めて來(lái)た時(shí)、私の日本語(yǔ)レベルは基本的に「ゼロ」だった。居酒屋でのアルバイトを探すのさえ苦労した。言葉の壁で斷られることばかりだった。
私がなぜ店長(zhǎng)に采用されたのか、今でも分からない。面接に行った時(shí)に、基本的なあいさつ以外は何も分からなかったのをおぼろげに覚えているだけ。履歴書は、當(dāng)時(shí)の住所と交通ルート以外、すべて中國(guó)語(yǔ)で書いていた。日本では失禮なことだ。「郷に入っては郷に従え」ができなかった。
しかし奇跡は起きた?!笗堡姓iんでくれる」が実現(xiàn)したことで、彼は履歴書を3分ほど読んだ後、英會(huì)話はできるかと聞いてきた。私は英語(yǔ)で「少しできる」と答えた。今になって思えば、日本でのアルバイト面接で英語(yǔ)を使うなんて、彼自身も思っていなかっただろう。
こうして私たちは、最も簡(jiǎn)単な日本語(yǔ)と英語(yǔ)で30分話し合った。面接が終わる間際に彼は日本語(yǔ)で多くの話をした。ほとんど理解できなかったが、まとめると私は翌日から出勤できるということだった。その瞬間、顔がほころんだのを自分でも感じていたが、彼も笑顔になり「明日から頑張って。日本語(yǔ)をしっかり勉強(qiáng)してね」と言ってくれた。
その日から出勤するたびに、店長(zhǎng)は私に3~5つの日本語(yǔ)を教えてくれた。文化の違いもあり、私はミスを繰り返して彼を困らせた。しかし彼は私をクビにすることはなかった。ミスをするたびにすぐにフォローしてくれ、笑顔で名前を呼んでくれた。最初にミスをして赤面していたころから、たまにミスをして笑顔で「店長(zhǎng)、助けて…」と呼ぶようになるまで、2年半の時(shí)間を一緒に過(guò)ごした。
忙しい時(shí)に他の留學(xué)生アルバイトのミスをきっかけに言い爭(zhēng)うこともあったが、職場(chǎng)を離れての関係に影響を與えることはなかった。新型コロナウイルスが流行する中で日本の多くの飲食店が人員を削減していた時(shí)も、私の勤務(wù)時(shí)間を確保してくれた。私が他のアルバイトがないため生活費(fèi)が足りないのではないかと心配して「お金を貸そうか」と言ってくれた。彼に助けられるたびに、私の日本人に対する認(rèn)識(shí)は塗り替えられていった。
卒業(yè)が近づいている時(shí)に、彼は攜帯電話のメッセージで「卒業(yè)の正確な時(shí)期を教えてください。みんなを集めて送別會(huì)を開(kāi)きます。2年半の時(shí)間を共にしてくれたことに感謝します。これからも頑張ってください。あなたは友人です」と聲をかけてくれた。以前は見(jiàn)慣れず、そして今では見(jiàn)慣れた日本語(yǔ)での祝福を目にして、心の中に何とも言えない、私にだけ分かる感情が込み上げてきた。
しかし、時(shí)間は止まってはくれず。店を離れる前に彼に小さなプレゼントを贈(zèng)ると、彼ははやりのポーズでお禮を言ってくれた。お?jiǎng)eれ會(huì)の後、私は就職し、その後も時(shí)々メッセージで連絡(luò)を取り合っていたが、會(huì)うことは少なくなった。
留學(xué)を終えた後、「日本人の友人」との友情も終わったと思っていた。しかし先日、中國(guó)にいる私に彼から電話がかかってきた?!附瘠巫∷蚪踏à皮坤丹ぁ¥ⅳ胜郡盲坤盲骏榨氅`ツアメやポテトチップス、チョコクッキー、食べたいものを送ります」。その瞬間、私は聲を詰まらせた。(翻訳?編集/北田)
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