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東京オリンピックを引き継ぐ形で、東京パラリンピックが8月24日に開幕する。スポーツを通じて障がい者への理解が進(jìn)むのは嬉しいことである。障がい者の社會(huì)復(fù)帰に生涯を捧げた中村裕醫(yī)師を改めて想起した。
8月8日に閉幕した東京オリンピックを引き継ぐ形で、東京パラリンピックの聖火の種火を採る「採火式」が各地で始まった。コロナ対策で規(guī)模の縮小を迫られながらも、パラアスリートや愛好家、住民らが趣向を凝らした方法で火をつなぎ、大會(huì)の無事と共生社會(huì)の実現(xiàn)を期している。東京パラリンピックは8月24日に開幕し、9月5日までの12日間にわたり22の競(jìng)技(539種目)が行われる。
健常者の競(jìng)技はアスリートの活躍が派手に伝えられ、アマ?プロを問わずコロナ禍でも大會(huì)が行われる。ところが、障がい者スポーツが大きな腳光を浴びるのは、4年に一度開かれるオリンピックの直後に開催されるパラリンピックにほぼ限られる。地味な存在だったパラリンピックに関する話題が今回の東京大會(huì)を前に、テレビや新聞?雑誌などで取り上げられ、競(jìng)技種目やルールの理解も進(jìn)んでいる。スポーツを通じて障がい者への理解が進(jìn)むのはうれしいことである。
◆障がい者の社會(huì)復(fù)帰に一生を捧げた中村醫(yī)師
こうした中、「太陽を愛したひと ~1964 あの日のパラリンピック~」とういうNHKノンフィクションドラマを改めて鑑賞した。1964年の東京パラリンピックを主導(dǎo)して成功に導(dǎo)き、障がい者の社會(huì)復(fù)帰に一生を捧げた中村裕?醫(yī)師の人生を描いた感動(dòng)の物語である。
1960年、整形外科醫(yī)の中村裕博士は研修先のイギリスで、スポーツを取り入れた障がい者醫(yī)療を?qū)Wんだ。その時(shí)に出會(huì)った言葉が、その後の彼の人生の原動(dòng)力になる。
「失ったものを數(shù)えるな。殘っているものを最大限に生かせ」。
帰國した中村醫(yī)師は、障がい者スポーツを何とか広めようとするが、日本ではリハビリという言葉すらなかった時(shí)代?!敢娛牢铯猡韦摔筏胜い扦郅筏ぁ工鹊挚工摔ⅳΔ?、下半身が不自由な少年との出會(huì)いをきっかけに、車椅子バスケットボールを少しずつ普及させていった。
中村醫(yī)師は1964年の東京オリンピックと同時(shí)開催されたパラリンピックの成功に向け奔走。社會(huì)の常識(shí)という壁が立ちはだかり、障がい者の家族からも反対の聲が上がったが、家族や仲間の支えで、次々と突破。東京パラリンピックを成功に導(dǎo)いた。その後、障がい者自立のための施設(shè)を設(shè)立するなど、障がい者の社會(huì)復(fù)帰に盡力した。
ドラマの後半部分に人気俳優(yōu)の向井理さん演じる中村醫(yī)師が立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン)本社を訪ね、田山?jīng)龀嗓丹蟀绀工肓⑹徽嫔玳L(オムロン創(chuàng)業(yè)者)に懇願(yuàn)するシーンがある?!袱长欷蓼嵌啶纹髽I(yè)に要請(qǐng)したが、斷られました。障害者自立のための施設(shè)の設(shè)立に協(xié)力してほしい」。父の一真は「共同出資という形でやりましょう」と応諾。その後社會(huì)福祉法人「太陽の家」とオムロンとの協(xié)力による身體障がい者のための福祉工場(chǎng)が設(shè)立され、工場(chǎng)で身障者が生き生きと働く様子がドラマで再現(xiàn)された―。
◆身體障がい者の福祉工場(chǎng)「オムロン太陽」
太陽の家は、大分県別府市、愛知県、京都府にある身體障害者が社會(huì)復(fù)帰するための訓(xùn)練施設(shè)である。オムロンでは「太陽の家」の活動(dòng)趣旨に賛同し、資金を寄付するとともに、「太陽の家」との合弁により、身體障がい者が働きやすい環(huán)境を整えた福祉工場(chǎng)「オムロン太陽(大分県別府市)」と「オムロン京都太陽」を設(shè)立した。
設(shè)立するに至ったもともとの経緯は、前述のドラマで描かれた創(chuàng)業(yè)者?立石一真と故?中村裕醫(yī)學(xué)博士との出會(huì)いにある。1971年9月、中村博士と評(píng)論家の秋山ちえ子氏が重度身體障害者の社會(huì)復(fù)帰のことで、京都?御室の本社まで依頼に來られた。中村博士は整形外科の名醫(yī)で、以前から別府に私費(fèi)を投じて重度障がい者の職業(yè)訓(xùn)練のため、その施設(shè)として社會(huì)福祉法人「太陽の家」をつくり、自ら理事長になっていた。中村博士のお話では、「訓(xùn)練には丸々2年かかるが、すでに400人の重度身障者を社會(huì)に送り出した。ところが、そのうち1割しか就職していない。身障者の訓(xùn)練には特別に骨が折れるのに、それが無駄になっている」ということだった。
この就職率の低さは、企業(yè)側(cè)の受け入れマインドの不足もさることながら、受け入れ施設(shè)の不備もわざわいしていた。重度身障者が働きやすく、居住にも便利な受け入れ體制を持った専門の工場(chǎng)をつくるより方法がないという結(jié)論になり、この工場(chǎng)の建設(shè)に協(xié)力してほしいと言ってこられたのである。
當(dāng)時(shí)、私は入社していたから経緯を覚えている。當(dāng)社では経営的に引き受けるのは難しい狀況であったが、『企業(yè)は社會(huì)の公器である』との社憲の精神にのっとり、太陽の家との合弁で日本初の身體障がい者福祉工場(chǎng)、「オムロン太陽」を1972年に設(shè)立した。そして、1986年には京都にも「オムロン京都太陽」を設(shè)立した。これらの工場(chǎng)ではセンサーやソケット、プログラマブルーコントローラといった電気機(jī)器の製造?販売を行なっている。このふたつの工場(chǎng)では、障害をもっている人が約300人おり、そのうち半數(shù)が重度障害者である。
◆障がい者が自ら「働きやすい環(huán)境」つくる
工場(chǎng)構(gòu)內(nèi)の配置は「障がい者が働きやすく、生活しやすく」をベースに、仕事エリアと生活エリア、すなわち職住が接近しているのが特徴だ。また、彼らが働きやすいように、隨所に工夫が凝らされている。たとえば生産ラインは、車いすで自由に動(dòng)けるように広くとった通路設(shè)定や、ハンディを補(bǔ)うさまざまな工夫を施した多品種少量生産に対応する生産ラインとなっている。また、作業(yè)をする上で不自山な部分は社員が自分たちで工夫し、獨(dú)自の補(bǔ)助器具や治工具を製作するなどして、生産性の向上を図っている。たとえば、車いすに乗ったままでも無理なく使用できるATMは、オムロン京都太陽の社員が開発に參加し、操作パネルの高さなどを調(diào)整して、完成させた。
中村醫(yī)師が障がい者スポーツを広めパラリンピックの礎(chǔ)を築いたことに改めて敬意を抱いた。障がい者福祉工場(chǎng)は全國に拡大したが、當(dāng)社創(chuàng)業(yè)者の父?立石一真の決斷がその先鞭をつけたことを誇らしく思う。
今回の東京パラリンピックが、中村醫(yī)師が注いだ「障がい者ファースト」の精神を引き継いで成功するよう心から願(yuàn)いたい。テレビ視聴を楽しみにしているが、東京オリンピックに負(fù)けない感動(dòng)を享受できると期待している。
<羅針盤篇64>
■筆者プロフィール:立石信雄
1959年立石電機(jī)販売に入社。1965年立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン株式會(huì)社)取締役。1995年代表取締役會(huì)長。2003年相談役。 日本経団連?國際労働委員長、海外事業(yè)活動(dòng)関連協(xié)議會(huì)(CBCC)會(huì)長など歴任。「マネジメントのノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名譽(yù)文化博士。中國?北京大、南開大、上海交通大、復(fù)旦大などの顧問教授や顧問を務(wù)めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會(huì))名譽(yù)會(huì)長。エッセイスト。
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