「中國の小學(xué)校教科書で中國語を?qū)Wぶ」というのはどうなのか

大串 富史    2021年3月3日(水) 23時(shí)20分

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僕らのハーフの娘の小學(xué)校1年生の國語の教科書には、既に「掰」や「捧」といった新HSK6級レベルの漢字がある。中國の小學(xué)校の教科書は、中國語を?qū)W習(xí)しようとする外國人にとって確かに一見に値する。

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大多數(shù)の人にとって、外國語學(xué)習(xí)に恐らく近道はない。だが中國語學(xué)習(xí)に関して言えば、中國の小學(xué)校の教科書は確かに一見に値する。

その他の寫真

別コラムでもう何度も書いているのだが、大多數(shù)の人にとって近道がないのは事実なので如何ともしがたい。これは英語を例に取れば分かりやすい。

この高度情報(bào)化社會のただ中で英語學(xué)習(xí)の「近道」が幾度となく示されてきたが、そのほとんどすべてが「私が」とか「私も含め何人もが」とか「これまで何人もの人が」近道できました!という話をしているだけで、「大多數(shù)の人が」とは決して言っていない。

つまり僕のような凡人また語學(xué)オンチな人は他の人より時(shí)間がかかるのは仕方なく、ごく普通の人が非常に優(yōu)秀で語學(xué)的センスに恵まれた一握りの人またその予備軍である上位20%集団の人と同じ方法を使って必ず「近道」できるかどうかも定かではない。

いつも引き合いに出す「バベルの混亂」の故事よろしく、これには科學(xué)的事実の裏付けがある。

つまり外國語を話すことと聞くことは新たな言語野の形成が関係しているゆえ、誰にとっても容易でない。書くことと読むことも上述の先頭集団の人々を除く半數(shù)以上の人にとって-つまり平均的な能力を持つ普通の人々を含む大多數(shù)の人にとって-決して容易ではない。

だがその同じ科學(xué)的事実が、凡人な僕らすべてに「希望の光」を與えている。

問題となっているのは脳內(nèi)のシナプスの形成に過ぎないので、近道か否かにかかわりなく、文字通り「大多數(shù)の人が」目標(biāo)を相応に達(dá)成できる。ようは「慣れ」に過ぎないのである。

この事実を、僕はよく日本語を?qū)Wぶ中國人の學(xué)生に(中國語で)こんな風(fēng)に説明している。

「今はコロナ禍だけど、中國ではもう公園に人が戻ってきてるよね。公園に行けば、あるおばちゃんたちは歌を歌ったりダンスを踴ってたりするかもしれない。あるおじちゃんたちは二胡を演奏しているかもしれない」。

「じゃ聞くけど、皆が皆歌を歌ったり踴ったり二胡を演奏したりしているかな?そんなはず、あるわけない」。

「でも皆が皆、母語である中國語は話せるんじゃないかな?ろうあの人でない限り、言語を話せないという人は一人もいないんです。言語を話すということは、それだけ簡単なことなんですよ!」

もちろんこの話には、「日本語や英語を話せるおばちゃんやおじちゃん」は登場しない。そんなおばちゃんやおじちゃんはそれこそまれだろうが、実を言えばこのツッコミどころに、この話のミソがある。

つまり母語であれ外國語であれ、言語のコミュニケーションには歌やダンスや演奏のような完成度は求められていない。

率直に言ってしまえば、下手な歌聲を披露したり、変なダンスを踴ったり、耳障りな音楽を奏でるのは人様に迷惑かもしれないが、外國語を話せなかったり聞き取れなかったりは普通であれば人様の迷惑にならない。自分が恥ずかしいだけだ。

であれば、外國語を話せなかったり聞き取れなかったりして恥ずかしくても、別にいいのではなかろうか。

まあそれなりの歌やダンスや演奏をわざわざ人前で披露するおおらかな中國の人々のただ中で、日本語が話せなくて聞き取れなくてハズカシーなどと思う必要は、実のところみじんもないのである。

ところで、こんなことをわざわざ書くのは「光に対して目を閉じて」いる人があまりに多いからだ。

凡人な僕らすべてに「希望の光」があり、ようは「慣れ」に過ぎないのに、中國人との真っ向コミュニケーションにより中國語に「慣れ」ようとする人より、「近道」を探そうとする人の方が多いような気がしてならない。

一方で別コラムにも書いたが、移民のうち「大多數(shù)の人」は、移民先の外國語に「慣れ」た結(jié)果、大なり小なり新たな言語野の形成に成功している。外國人なまりではあっても外國語を?qū)g際に話せるし、聞き取りも相応である。

「移民」のように外國語に「慣れ」る。これこそが成人である「大多數(shù)の人」にとっての言語學(xué)習(xí)の王道なのである。

そんなわけで僕はよく中國人に「まあ(日中ハーフの)娘が小學(xué)校に上がるのと一緒に小學(xué)校に上がって(つまり宿題を見るなりして一緒に中國語を勉強(qiáng)し)、娘が卒業(yè)する頃には一緒に卒業(yè)できると思います」と話し、相手の笑いを誘ってきた。

ところが最近、娘の小學(xué)校1年生の語文(つまり國語)の教科書を見ていて、我が目を疑った。

教科書の最後の方に物語の主人公の子ザルの動作の説明があるのだが、なんと「掰」の字が載っているではないか。

僕は中國人の妻の助けを得て新HSK6級を取得しているし、「パンを割る(わる)」または「割く(さく)」という意味の「掰開」という熟語も知っているが、この漢字の級別難易度はまさにその新HSK6級レベルなのである。

その中に列挙されている、日本語でも「捧げ銃」(「ささげつつ」つまり銃を用いた敬禮の一種)などの熟語で使う「捧」という漢字もやはり、新HSK6級レベルの漢字である。

しかも教科書の最後の方になるにつれ、ピンイン(日本のフリガナに當(dāng)たる中國語の発音記號)がほとんど振られていない。

教科書の付録である漢字の部首一覧に至っては、こざとへん(おおざと)が新華事典などで採用されている「耳字旁」という通用名ではなく、「雙耳旁」となっている(ちなみに「単耳旁」はわりふ?ふしづくりである)。

だから中國の小學(xué)校の教科書は、中國語を?qū)W習(xí)しようとする外國人にとって確かに一見に値する。事実、1年生の教科書で既に新HSK6級、つまりあくまで目安であるもののTOEICの900-940點(diǎn)またはTOEFLの607-627點(diǎn)程度に相當(dāng)するレベルの漢字を扱っている。

「なんと、今度は小學(xué)校の教科書ですかー」という聲が聞こえてきそうではあるが、一つはっきりしていることがあるので、どうぞご自身でご判斷いただきたい。

皆さんは歌唱や舞踴や楽器演奏を習(xí)いたいと思う場合、誰のところに行くだろうか?もし仮に蕓大に受かりたいと思うなら、相応の先生のところに行くだろう(だから僕も若い頃に當(dāng)時(shí)日本で五指に入るような大先生に師事していたことがある)。

では皆さんが正真正銘のネイティブの日本語を話せるのは、相応の先生のところに行ったからなんですか?

この點(diǎn)、中國語學(xué)習(xí)に関する答えは極めて明快だ。

端的、私は中國語のエキスパートなんです!みたいなことを言う外國人の誰であっても、中國現(xiàn)地の小學(xué)校5、6年生の中國の子どもたち以上に通じる中國語を話しかつ聞き取れる(アナウンサーのような標(biāo)準(zhǔn)語ではなく、方言と共にその地方でよそ者と見破られないほどの「標(biāo)準(zhǔn)語」のコミュニケーションができる)人を、僕はただの一人も知らない。

だから、そんなエキスパートさんでも上位20%集団の人でもない僕ら凡人が、じゃ中國語の読み書きは中國の小學(xué)校の教科書から始めましょうと言ったからとて、少しも恥ずかしいことではない。

思うに中國語はその點(diǎn)、どちらかというと國際共通語である英語に似ており、日本語はその點(diǎn)、どちらかというと韓國語に似ている。

日本人と結(jié)婚し日本語がほぼペラペラな(オーストラリアで育って英語教師の資格があり、中國語も相応に話せる)韓國人の友人が、自分の韓國語は「子どもの」韓國語なので(小學(xué)校を卒業(yè)する頃にオーストラリアに家族で移住した)、大人の韓國語をうまく話せないんですと笑っていたのを思い出す。

同様に日本の小學(xué)校5、6年生が海外に移住し大人になってから日本に戻ってきたら、聞き取りはともかく、通常のコミュニケーションで大人の日本語をうまく話すのは大変だろう。

ところが中國の小學(xué)校5、6年生が海外に移住し大人になってから中國に戻ってきても、問題はほとんどない?!袱浃丹筏と毡菊Z」ではないが、中國語には通常のコミュニケーションに必要な「大人の中國語」というものがなく、そもそも小中學(xué)校しか出ていない人が普通にいる。

それにしても、人類の言語を混亂させるという神様が採用したこの方法は極めて効果的だっただけでなく、言語學(xué)習(xí)の見地からしても意義深い。

突如として脳內(nèi)に生じた言語野が既存の言語野に置き換わる?というこの「奇跡」は、「天にまで屆く塔(つまりバベルの塔)を建てて、われわれの名をとどろかせよう」と考えた人々のコミュニケーションを斷つために行われたという。

そんな「私を見てください!」みたいな精神態(tài)度の人々は言語學(xué)習(xí)向きではないから、もし當(dāng)時(shí)のエキスパートさんや上位20%集団の人らが「大多數(shù)」の人々に新たな言語を教えようと試みたところで、結(jié)局時(shí)間の無駄であったことだろう。

中國語學(xué)習(xí)について言えば、「私を見てください!」といった「塔」建設(shè)の試みは、「大多數(shù)の人」にとって結(jié)局時(shí)間の無駄になる。「塔」ではなく身の丈に合わせて「慣れ」ようとするなら、「大多數(shù)の人」にとって結(jié)局時(shí)間の節(jié)約になる。

では、どうやって「慣れ」ればいいのか。

もし中國人の友人がおり、その子どもも中國語ができるなら、その子こそがあなたの「身の丈」に合った「相応の先生」なのかもしれない(子どもは大人より自由な時(shí)間があり喜んで會話に応じてくれ恐らく無料でそうしてくれる)。その家にもし中國の小學(xué)校の教科書があるなら、なんとその教科書も、である。

いやいや、「大多數(shù)の人」の一人である僕も世界中の移民の皆さんと同じく、そんな感じなんですよ?!改铯錁I(yè)する頃には、一緒に卒業(yè)できると思います」。

■筆者プロフィール:大串 富史

本業(yè)はITなんでも屋なフリーライター。各種メディアでゴーストライターをするかたわら、中國?北京に8年間、中國?青島に3年間滯在。中國人の妻の助けと支えのもと新HSK6級を取得後は、共にネット留學(xué)を旨とする「長城中國語」にて中國語また日本語を教えつつ日中中日翻訳にもたずさわる。中國?中國人?中國語學(xué)習(xí)?中國ビジネスの真相を日本に紹介するコラムを執(zhí)筆中。

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