<羅針盤(pán)>「日本身障者スポーツの父」讃える施設(shè)開(kāi)館、「共生」を?qū)Wぶ―立石信雄オムロン元會(huì)長(zhǎng)

立石信雄    2020年9月6日(日) 11時(shí)59分

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障がい者の社會(huì)復(fù)帰と自立に一生をかけた中村裕醫(yī)師(1927~84)の足跡を振り返る新たな歴史資料館「太陽(yáng)ミュージアム」がオープン。嬉しく誇らしい気持ちになった。寫(xiě)真は東京パラリンピック?エンブレム。

障がい者の生活や就労を支える社會(huì)福祉施設(shè)「太陽(yáng)の家」(大分県別府市)は、10月で開(kāi)所から55年になる。障がい者の社會(huì)復(fù)帰と自立に一生をかけた創(chuàng)設(shè)者、中村裕醫(yī)師(1927~84)の足跡を振り返る新たな歴史資料館「太陽(yáng)ミュージアム~No Charity、but a Chance!~」が、7月にこの施設(shè)內(nèi)にオープン。中村醫(yī)師が訴え続けた「保護(hù)より機(jī)會(huì)を」の理念が英文で施設(shè)名に盛り込まれた――。

このニュースに接して、嬉しく誇らしい気持ちになった。いささか手前みそになるが、この太陽(yáng)の家は、私の父?立石一真と立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン)が深く関わっているからである。

1960年、整形外科醫(yī)の中村裕博士は研修先のイギリスで、スポーツを取り入れた障害者醫(yī)療を?qū)Wんだ。その時(shí)に出會(huì)った言葉が、その後の彼の人生の原動(dòng)力になる。

◆「失ったものを數(shù)えるな。殘っているものを最大限に生かせ」

帰國(guó)した中村醫(yī)師は、障がい者スポーツを何とか広めようとするが、日本ではリハビリという言葉すらなかった時(shí)代?!敢?jiàn)世物にしないでほしい」と抵抗にあうが、下半身が不自由な少年との出會(huì)いをきっかけに、車(chē)いすバスケットボールを少しずつ普及させていった。自信をなくした身障者に「失ったものを數(shù)えるな。殘っているものを最大限に生かせ」と勵(lì)ました。

中村醫(yī)師は1964年の東京オリンピックと同時(shí)開(kāi)催されたパラリンピックの成功に向け奔走。社會(huì)の常識(shí)という壁が立ちはだかり、障がい者の家族からも「見(jiàn)世物にするな」などと反対の聲が上がったが、家族や仲間の支えで、次々と突破。東京パラリンピックを成功に導(dǎo)いた。その後、障がい者自立のための施設(shè)を設(shè)立するなど、障害者の社會(huì)復(fù)帰に盡力した。

◆身體障がい者の福祉工場(chǎng)

オムロンは「太陽(yáng)の家」の活動(dòng)趣旨に賛同し、資金を寄付するとともに、「太陽(yáng)の家」との合弁により、身體障害者が働きやすい環(huán)境を整えた福祉工場(chǎng)「オムロン太陽(yáng)(大分県別府市)」と「オムロン京都太陽(yáng)」を設(shè)立した。

設(shè)立するに至ったもともとの経緯は、創(chuàng)業(yè)者?立石一真と中村裕醫(yī)學(xué)博士との出會(huì)いにある。1971年9月、中村博士と評(píng)論家の秋山ちえ子氏が重度身體障がい者の社會(huì)復(fù)帰のことで、京都?御室の立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン)本社を訪(fǎng)ねてこられた?!袱长欷蓼嵌啶纹髽I(yè)に要請(qǐng)したが、斷られました。障がい者自立のための施設(shè)の設(shè)立に協(xié)力してほしい」。父の一真は「共同出資という形でやりましょう」と応諾。その後社會(huì)福祉法人「太陽(yáng)の家」とオムロンとの協(xié)力による身體障害者のための福祉工場(chǎng)?居住施設(shè)が設(shè)立された。

中村博士は整形外科の名醫(yī)で、以前から別府に私費(fèi)を投じて重度障がい者の職業(yè)訓(xùn)練のため、その施設(shè)として社會(huì)福祉法人「太陽(yáng)の家」をつくり、自ら理事長(zhǎng)になっていた。中村博士のお話(huà)では、「訓(xùn)練には丸々2年かかるが、すでに400人の重度身障者を社會(huì)に送り出した。ところが、そのうち1割しか就職していない。身障者の訓(xùn)練には特別に骨が折れるのに、それが無(wú)駄になっている」ということだった。

この就職率の低さは、企業(yè)側(cè)の受け入れマインドの不足もさることながら、受け入れ施設(shè)の不備もわざわいしていた。重度身障者が働きやすく、居住にも便利な受け入れ體制を持った専門(mén)の工場(chǎng)をつくるより方法がないという結(jié)論になり、この工場(chǎng)の建設(shè)に協(xié)力してほしいと言ってこられたのである。

當(dāng)時(shí)、當(dāng)社では経営的に引き受けるのは難しい狀況であったが、『企業(yè)は社會(huì)の公器である』との社憲の精神にのっとり、太陽(yáng)の家との合弁で日本初の身體障がい者福祉工場(chǎng)、「オムロン太陽(yáng)」を1972年に設(shè)立した。そして、1986年には京都にも「オムロン京都太陽(yáng)」を設(shè)立した。これらの工場(chǎng)の事業(yè)內(nèi)容は、センサーやソケット、プログラマブルーコントローラといった電気機(jī)器の製造?販売を行なっている。

太陽(yáng)の家の拠點(diǎn)や大分、愛(ài)知、京都にある共同出資會(huì)社、別府の協(xié)力企業(yè)で合わせて約1100人の障がい者と約800人の健常者が共生している?!弗昆ぅ些`シティー」の手本を?qū)Wぼうと、太陽(yáng)の家には年間約9000人が見(jiàn)學(xué)に訪(fǎng)れるというから心強(qiáng)い。

◆障がい者が自分たちの手で働きやすい環(huán)境づくり

工場(chǎng)構(gòu)內(nèi)の配置は「障害者が働きやすく、生活しやすく」をベースに、仕事エリアと生活エリア、すなわち職住が接近しているのが特徴だ。また、彼らが働きやすいように、隨所に工夫が凝らされている。たとえば生産ラインは、車(chē)いすで自由に動(dòng)けるように広くとった通路設(shè)定や、ハンディを補(bǔ)うさまざまな工夫を施した多品種少量生産に対応する生産ラインとなっている。また、作業(yè)をする上で不自山な部分は社員が自分たちで工夫し、獨(dú)自の補(bǔ)助器具や治工具を製作するなどして、生産性の向上を図っている。たとえば、車(chē)いすに乗ったままでも無(wú)理なく使用できるATMは、オムロン京都太陽(yáng)の社員が開(kāi)発に參加し、操作パネルの高さなどを調(diào)整して、完成させた。

新設(shè)された「太陽(yáng)ミュージアム~No Charity、but a Chance!~」の展示室には、中村醫(yī)師ゆかりの品々が並ぶ。初期の屋內(nèi)用電動(dòng)車(chē)いす、車(chē)いすユーザーも扱いやすいオフセット印刷機(jī)などだ。それに続く壁面パネルを見(jiàn)れば法人の歩みを時(shí)系列で知ることができる?!溉毡兢握悉ふ撺攻荸`ツの父」と呼ばれる中村醫(yī)師にちなみ、車(chē)いすレーサーやバスケットボール用車(chē)いすに乗り、パラ種目の球技「ボッチャ」を試せるコートもある。屋外には段差や傾斜、凹凸のある路面を車(chē)いすで進(jìn)む難しさを體感できるゾーンも設(shè)けられた。

「視力が落ちた人は眼鏡をかければ社會(huì)參加できる。同様に障がいがあっても道具を使えば普通に仕事や生活ができる」―。自らも障がい者である山下達(dá)夫「太陽(yáng)の家」理事長(zhǎng)はこう話(huà)しているが、心から共感する。

障がい者福祉工場(chǎng)は全國(guó)に拡大しつつある。誰(shuí)もが自分らしく生きられる包摂社會(huì)へ。本當(dāng)の共生社會(huì)の実現(xiàn)に向けた活動(dòng)の輪が世界に広がることを心から切望したい。

<羅針盤(pán)篇58>

■筆者プロフィール:立石信雄

1959年立石電機(jī)販売に入社。1965年立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン株式會(huì)社)取締役。1995年代表取締役會(huì)長(zhǎng)。2003年相談役。 日本経団連?國(guó)際労働委員長(zhǎng)、海外事業(yè)活動(dòng)関連協(xié)議會(huì)(CBCC)會(huì)長(zhǎng)など歴任。SAM「The Taylor Key Award」受賞。同志社大名譽(yù)文化博士。中國(guó)?北京大、南開(kāi)大、上海交通大、復(fù)旦大などの顧問(wèn)教授や顧問(wèn)を務(wù)めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會(huì))名譽(yù)會(huì)長(zhǎng)。エッセイスト。

■筆者プロフィール:立石信雄

1959年立石電機(jī)販売に入社。1965年立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン株式會(huì)社)取締役。1995年代表取締役會(huì)長(zhǎng)。2003年相談役。 日本経団連?國(guó)際労働委員長(zhǎng)、海外事業(yè)活動(dòng)関連協(xié)議會(huì)(CBCC)會(huì)長(zhǎng)など歴任?!弗蕙庭弗幞螗趣?a target='_blank' href='http://www.wenhuatang.com/search.php?filter=ノーベル賞'>ノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名譽(yù)文化博士。中國(guó)?北京大、南開(kāi)大、上海交通大、復(fù)旦大などの顧問(wèn)教授や顧問(wèn)を務(wù)めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會(huì))名譽(yù)會(huì)長(zhǎng)。エッセイスト。

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