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富岡製糸場(chǎng)は明治5年に明治政府が日本近代化のために設(shè)立した模範(fàn)器械製糸場(chǎng)。當(dāng)時(shí)としては世界最大規(guī)模の製糸場(chǎng)であった。
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富岡製糸場(chǎng)(群馬県富岡市富岡1-1、2014年6月世界遺産登録)は明治5年(1872年)に明治政府が日本近代化のために設(shè)立した模範(fàn)器械製糸場(chǎng)。設(shè)立前に武蔵?上野?信濃の地域を調(diào)査し、良質(zhì)な繭の確保、広い土地、製糸に必要な水、蒸気機(jī)関燃料用石炭、地元の人たちの同意が條件で富岡が選ばれた。當(dāng)時(shí)としては世界最大規(guī)模の製糸場(chǎng)であった。
【その他の寫真】
昭和13年(1938年)には(株)富岡製糸所として獨(dú)立し、昭和14年(1939年)には日本最大の製糸會(huì)社であった片倉製糸紡績(jī)(株)(現(xiàn)?片倉工業(yè)(株))に合併、戦後は自動(dòng)繰糸機(jī)を?qū)毪筏崎L(zhǎng)く製糸工場(chǎng)として活躍したが、日本の製糸業(yè)の衰退とともに昭和62年(1987年)3月ついにその操業(yè)を停止した。平成17年(2005年)9月に建造物の一切が富岡市に寄贈(zèng)されて現(xiàn)在も富岡市が保存管理を行っている。平成17年7月には國(guó)の史跡となり、平成18年(2006年)7月には主な建造物が重要文化財(cái)、さらに平成26年(2014年)12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「國(guó)寶」となった(寫真1)。
富岡製糸場(chǎng)正門を入ると、昔からの守衛(wèi)室が左にあり、正面に赤レンガの東置繭所があり、反対側(cè)には西置繭所がある。置繭所(おきまゆじょ)とは北の乾燥場(chǎng)で石炭を燃やした熱で繭を乾燥させ、その後自然乾燥で大量の繭を保管する置場(chǎng)である。その後、南の繰糸所(そうしじょ)は繭から一定の太さの糸を巻き上げる工場(chǎng)で、7個(gè)程度の煮繭から細(xì)い糸を多本撚り上げて一本の糸にする。この繰糸所に「ニッサンHR型自動(dòng)繰糸機(jī)」がどんと7臺(tái)近く設(shè)置されていた(寫真1下)。ニッサンとはあの自動(dòng)車メーカーの日産自動(dòng)車である。トヨタ自動(dòng)車は豊田佐吉が自動(dòng)織機(jī)を発明し、その後自動(dòng)車産業(yè)を長(zhǎng)男喜一郎が育て上げた事で繊維産業(yè)との関係は當(dāng)初からあったが、ダットサンの愛稱で知られる自動(dòng)車メーカーが何故繭から生糸を作る設(shè)備を作っていたかと不思議であったが、その沿革を知ることで理解ができた。
製糸場(chǎng)南端に妙義寮がある(寫真1左)。工女の宿泊施設(shè)だが、合わせて教育施設(shè)もあった。休日には女性として必要な裁縫などを含め良妻賢母になる教育制度があった。これは、片倉工業(yè)のメイン工場(chǎng)であった大宮製糸工場(chǎng)(現(xiàn)在のさいたま都心駅前)內(nèi)にも同じような教育施設(shè)があり、ここが現(xiàn)在は埼玉県立大宮高等學(xué)校になっている(參考:さいたま新都心駅前の原點(diǎn)は蘇州第一シルク工場(chǎng)にあった)。
日産自動(dòng)車は昭和41年(1966年)にプリンス自動(dòng)車と合併した。このプリンス自動(dòng)車は大正14年(1925年)設(shè)立の立川飛行機(jī)で前身は陸軍戦闘機(jī)「隼」を開発した石川島飛行機(jī)製作所である。戦闘機(jī)「隼」の量産は立川が行っていた。戦後、GHQより航空機(jī)開発は一切禁止され、昭和22年(1947年)には東京電気自動(dòng)車と改名して電気自動(dòng)車開発と平和産業(yè)事業(yè)として製糸技術(shù)に著目して「自動(dòng)繰糸機(jī)」の開発に著手した。
昭和24年(1949年)には「たま自動(dòng)電気自動(dòng)車」と改名、1回の充電で100km走る電気自動(dòng)車を販売した(寫真2)?,F(xiàn)在、日産自動(dòng)車は電気自動(dòng)車(e-Power)を製造販売しているが、原點(diǎn)は「たま電気自動(dòng)車」にあった。昭和27年(1952年)には「プリンス自動(dòng)車工業(yè)」と改名し、スカイライン?グロリアなどの名車を世に出した。昭和24年頃、蠶糸業(yè)界は官民一體となって「繰糸機(jī)」の自動(dòng)機(jī)開発にやっきになっており、たま自動(dòng)車では“たま4型”自動(dòng)繰糸機(jī)から“たま10C”型自動(dòng)繰糸機(jī)を開発した。
プリンス自動(dòng)車が日産自動(dòng)車と合併した昭和41年以降も自動(dòng)繰糸機(jī)の開発は続き、昭和46年(1971年)には世界一性能の設(shè)備「ニッサンHR-2型自動(dòng)繰糸機(jī)」が世に出され、全世界に出荷され、國(guó)內(nèi)シェア50%を占めるに至った。明治5年にフランス技術(shù)でスタートした日本製糸業(yè)はついには、當(dāng)時(shí)の先進(jìn)國(guó)であったフランス?イタリアに最新技術(shù)を里帰りさせるに至った(高林千幸「自動(dòng)車メーカーによる自動(dòng)繰糸機(jī)の開発」)。
終戦時(shí)、立川飛行機(jī)には多くの若き航空機(jī)エンジニアが居た。遠(yuǎn)距離爆撃機(jī)(キ74)の設(shè)計(jì)開発を行った田中次郎技師は、たま自動(dòng)車で電気自動(dòng)車の開発にあたり、その後は日産自動(dòng)車でエンジン自動(dòng)車開発も擔(dān)當(dāng)し、最後には日産自動(dòng)車専務(wù)取締役となった。もう一人、長(zhǎng)谷川龍雄技師は、たま自動(dòng)車に殘らずトヨタ自動(dòng)車で旗艦車でもあるカローラの開発主査となって、日本自動(dòng)車工業(yè)発展の原動(dòng)力になった。最後は、トヨタ自動(dòng)車専務(wù)取締役となった。長(zhǎng)谷川は立川時(shí)代に高度防衛(wèi)戦闘機(jī)(キ94)の開発に攜わっていた。戦前に航空機(jī)開発に従事した多くのエンジニアは戦後、繊維産業(yè)から自動(dòng)車産業(yè)に到る多くの分野で活躍し、技術(shù)立國(guó)「日本」の原動(dòng)力になった。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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