<コラム>夏王朝、治水の成功者がその國のリーダーになった。では、今の日本は?

工藤 和直    2020年7月17日(金) 23時(shí)20分

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帝禹陵は、夏王朝発祥の中原でなく約1000km南、浙江省紹興市會(huì)稽山にある(寫真1)。春秋時(shí)代越王「勾踐」の都である。勾踐は夏王朝の流れを組む一族であったという。

今年も予想されたように大水害(令和2年7月豪雨)が発生した。令和という新時(shí)代になってからも臺(tái)風(fēng)19號(hào)による福島?長(zhǎng)野?東京?千葉?川崎などの氾濫洪水など、50年に一度と言われる水害が毎年起こっている。梅雨前線が北上すれば、臺(tái)風(fēng)の季節(jié)が來る。水害だけでなく地震に火山噴火の恐れなど日本は災(zāi)害の多い國だけに、治山治水災(zāi)害に強(qiáng)い國つくりを目指すのは必須である。従って、治山治水に優(yōu)れたリーダーを必要とする。

司馬遷「史記」夏本紀(jì)によると紀(jì)元前2070年頃、禹(う)は中國古代の帝で夏王朝の創(chuàng)始者。名は文命(ぶんめい)、諡號(hào)は禹、姓は姒(じ)。姓?諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創(chuàng)始前、黃河の治水を成功させた。五帝の一人「黃帝」の孫、顓頊(センギョク)の孫である。司馬遷によると夏?殷?周王朝の始祖は全て黃帝の子孫であり、中華民族のあらゆる種族は黃帝の子孫である。

帝堯の時(shí)代に、禹は治水事業(yè)に失敗した父の後を継ぎ、舜に推挙される形で、黃河の治水にあたった。父の鯀は堤防を固定し、高地を削って低地を埋める「湮」と呼ばれる方法を用いた。しかし、鯀は9年経っても成果を上げることができなかった。子の禹は水の流れを見て勢(shì)いを緩和する放水路を作って排水を行う「導(dǎo)」とか「疏」と呼ばれる川を分流して堤防を作る工法を用いて黃河の治水に成功した。水の流れを見ることから始めたのだ。その期間は13年に渡った。禹は人徳の人でもあった。13年間に渡り現(xiàn)場(chǎng)に行き、洪水の現(xiàn)場(chǎng)をつぶさに見て、自ら鍬を持って農(nóng)民と共に働き、新工法を?qū)g現(xiàn)させた。

禹は舜から帝位の禪譲を受けて夏王朝を開いた。民衆(zhòng)も含め諸侯は、彼の治水に対する深い知識(shí)から自然に王位を勧めたのであろう。禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農(nóng)民を苦しませず、宮殿の大増築を當(dāng)面先送りし、関所や市場(chǎng)にかかる諸稅を免除し、煩雑な制度を廃止して行政を簡(jiǎn)略化した。徳の人物でもあった。

帝禹陵は、夏王朝発祥の中原でなく約1000km南、浙江省紹興市會(huì)稽山にある(寫真1)。春秋時(shí)代越王「勾踐」の都である。勾踐は夏王朝の流れを組む一族であったという。

時(shí)代は変わるが、江戸寶暦4年(西暦1754年)2月~寶暦5年(1755年)5月の間、幕命により薩摩藩が行った寶暦治水工事がある。濃尾平野の治水対策で、木曽川?長(zhǎng)良川?揖斐川の分流工事、三川分流治水ともいう。1年3カ月の工期に加え、40萬両(約400億円)ともいわれる費(fèi)用を要した大工事であった。

木曽川?長(zhǎng)良川?揖斐川の三河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流、輪中を繰り返す地形であり、小領(lǐng)の分立する美濃國では各領(lǐng)主の利害が対立し統(tǒng)一的な治水対策を採ることが難しかったことから、ただ堤防を追加するのみで毎年洪水が多発していた。薩摩藩の取った方策は、美濃郡代の井沢彌惣衛(wèi)門が享保20年(西暦1735年)に立案した木曾三川分流工事を?qū)g現(xiàn)させたことだ。井沢は享保年間8代將軍吉宗の命を受け、武蔵國の見沼?鴻沼などの灌漑用水路事業(yè)で実績(jī)が多かった。時(shí)代こそ違うが夏王朝「禹」の工法を?qū)g踐した。

寶暦治水の過程で、工事中に薩摩藩士51名が度重なる自分の持場(chǎng)からの洪水で自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老、平田靱負(fù)(ゆきえ)は多くの部下の犠牲者を出した責(zé)任と多額の出費(fèi)に対し割腹自殺した。筆者も鹿児島の小學(xué)校4年の時(shí)、社會(huì)科授業(yè)で平田靱負(fù)の生き方について教えられた。

現(xiàn)代で言えば、一國のリーダーは治山治水の知識(shí)と體制つくりができる人物であり、現(xiàn)地?現(xiàn)物?現(xiàn)象を自ら見て判斷できる、ただ官僚の意見にのみ耳を貸し、やすっぽい會(huì)見をせず具體的実施策を示す人物がリーダーとなるべきだ。現(xiàn)代の平田靱負(fù)を必要とする。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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