映畫「ピクニック」ツァイ?ミンリャン監(jiān)督に聞く、引退宣言の真意、今後の夢

Record China    2014年1月7日(火) 16時44分

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6日、新年連続インタビュー「アジア映畫の今」第2回は臺灣のツァイ?ミンリャン監(jiān)督。昨年秋に表明した突然の引退宣言の真意、今後の夢を聞いた。作品寫真提供:東京フィルメックス事務(wù)局

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2014年1月6日、ツァイ?ミンリャン(蔡明亮)監(jiān)督は本當(dāng)に映畫製作をやめるのか。今後どこへ向かうのか。昨秋、ベネチア國際映畫祭での突然の引退発表。新年連続インタビュー「アジア映畫の今」第2回は、臺灣のツァイ監(jiān)督に話を聞いた。

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1957年、マレーシア生まれ。77年に臺灣へ移住し、臺北の中國文化大學(xué)で映畫?演劇を?qū)煿ァ?2年、「青春神話」で映畫監(jiān)督デビュー。続く第2作「愛情萬歳」(94)がベネチア國際映畫祭最高賞の金獅子賞、第3作「河」(96)がベルリン國際映畫祭で銀熊賞を受賞するなど、世界で高く評価されてきた。

最新作でベネチア審査員大賞を獲得した「ピクニック(仮題)」は、ツァイ監(jiān)督の集大成といえる作品?!懊擞选堡钨絻?yōu)リー?カンション(李康生)を中心に、監(jiān)督獨自の手法を極限まで進めている。引退宣言について「神に命令されたらどうなるか分からない」と含みを殘しつつ、「今後は作品を美術(shù)館で展示したい。映畫を観る概念を変えたい」と意欲を示した。

▼一問一答は次の通り。

──まずは引退表明について聞きたい。

「映畫を撮ることは、神に定められた運命だ」と思ってきた。それが私に1本1本撮らせてきた。10本撮った。もういいのではないか。自分が十分納得のいくものが撮れている。ピクニックを撮り終え、「これで十分だ」と感じた。

私はほかの監(jiān)督と異なる創(chuàng)作をしてきた。まずお金にならない。娯楽要素がまったくない。そんな作品を撮り続けてきたにもかかわらず、毎回撮り終えるたびに、次の資金がなんとなく湧いてきた。神の采配としか考えられなかった。

私の映畫は世界中で公開されているが、配給する人たちの気が知れない(笑)。(日本で配給が決まった)「ピクニック」も含めて不思議だ。神が各國の人たちに啓示を與えているのではないか。

実は體を壊して、撮影に疲れを感じていた。固定観念にしばられた映畫産業(yè)のシステムに、體調(diào)が悪くても応じていかなければならない。それに嫌気が差してきた。10本撮っても何の変革もないシステム。それに疲れてきたことが、大きな理由でもある。

ただ、神様がもし私に命令を下されたら、どうなるか分からない(笑)。今は少し休みたい。今後は映畫ではなく、映像表現(xiàn)をしたい。たとえば美術(shù)館と組む方法だ。発表するのは映畫ではないかもしれない。もっと自由にできるから。

──美術(shù)館では作品が屆く対象が限定されるのでは。

いや、逆に多くなる??激à皮撙皮郅筏?。ヒットしない映畫なら、數(shù)日の上映で終わってしまう。美術(shù)館の企畫は最低2カ月。映像を「展示」することで、観客の概念をひっくり返せる。たとえばストーリーを売らない。形式を拒否する。スターを起用しない。

過去にスターの起用も考えたこともあるが、(ツァイ作品の常連俳優(yōu))リー?カンション(李康生)とは絶対に離れられない(笑)。スターを見たいなら別の映畫でどうぞ。私の作品を見なくてもいいでしょう。

──引退についてリーと何を話したか。

別に何も。意思表示をしなかった。ははは。彼も最初は俳優(yōu)として、他の映畫でいろいろな役を演じたいと思ったようだ。たとえば殺人犯とか。でも徐々に「あまりふさわしくない気がする」と言い始めた。年齢を重ねて、私の映畫で演じることが重要だと思ってくれるようになった。

(ツァイ作品の常連)女優(yōu)3人(ヤン?クイメイ、ルー?イーチン、チェン?シャンチー)も、私の作品ではほかの作品と違う態(tài)度で臨んでくれる。私の映畫世界を理解しているんだ。

──デジタル化が進み誰でも撮れて、誰でもインターネットで見られる時代。美術(shù)館で上映する理由は、現(xiàn)場で體験することが重要と考えるからか。

美術(shù)館の文化的な雰囲気に包まれ、じっくり作品を見てほしい。裝置としての美術(shù)作品だ。どう言おうか…映畫を観る概念を変えられる。ネットで見る角度、位置より、美術(shù)館では可能性が大きいと思う。

映畫産業(yè)の変革が可能になるだろう?!弗豫衰氓工蟻砟?月、臺灣の美術(shù)館で展示上映される。映畫産業(yè)のシステムにとらわれない、新しい配給の方法だ。チケットを売るため、賞レースに絡(luò)めて作ることも必要ない。簡単に言えば、映畫を作品として観ることになる。映畫館ではあくまで映畫は商品。大きく異なる。

──映畫監(jiān)督と蕓術(shù)家。心の中で自分をどう位置付けているのか。

私が決めたことではないが、他人は私を蕓術(shù)家という(笑)。臺灣に限って言えば、私は映畫界より美術(shù)界で認(rèn)められている。映畫界には私の作品を認(rèn)めようとしない風(fēng)潮がある。

(前作の)「ヴィサージュ」(09)のDVDは発売していない。テレビに版権も売っていない。DVDを私が売るなら、10枚限定、1枚100萬臺灣ドル(約300萬円)にしたい(笑)。コレクターに限定だ。ある畫廊が代理で交渉しているが、今までに4人から申し込みがあった。これならコレクターが版権を持ち、美術(shù)館などで上映できる。観客は増えていく。従來のDVD販売では、道端で1枚30ドルで売られるのが落ちだ。

──映畫に対する決別ではなく、継続的に考えてきたことなのか。

過去2、3本は「もう撮らない。もういやだ」と言い続け、プロデューサーがとても困っていた。ずっと考えていたことなんだ。短編を取るのはとても好き。今はシャオカン(リーの愛稱)が、ただ歩くだけの映像を撮っている。シリーズとして6本目に入った。

短編を撮ることで、私は學(xué)習(xí)している。映畫を撮る時、私はいつもあせっていた。うまくとれないのではないか。誰も見てくれないのではないか。配給が難しいのではないか。そんなつらい思いをしてきたが、短編を撮ることで、それらを捨て去る學(xué)習(xí)をしている。

仮にピカソのような畫家が、ある場所で絵を描こうとする。イーゼルを立てた時、彼はあせるだろうか? あせらないだろう。落ち著いて、描きたいものを描くだろう。映畫撮影はなぜあせりを招いてしまうのか。私はあせりを捨てたいんだ。

──映畫以外に文章、絵畫など別の表現(xiàn)方法をとるつもりはあるか。

寢た後で目が覚めた時、何もしなくていいような、頭が空っぽの狀態(tài)でありたい。すべての創(chuàng)作は自分から生まれる。ふとした瞬間に湧き上がり、作品として戻ってくるものだ?!负韦筏胜堡欷肖胜椁胜ぁ工瓤激à毪取?chuàng)作はできなくなる。

──映畫の中で建築、社會學(xué)的な考察を取り入れていると感じる。そんな自分を客観視した時、どう見えるのだろうか。

映畫には映畫の美學(xué)が常にある。私の作品でストーリーは重要ではない。畫面の中にすべてがある。時間があり、空間がある。すなわち私の映畫の美學(xué)だ。だから単一のアングルで対象に向き合い、そこに力を置いてきた。光、空間、長さに気を使ってきた。

──リー?カンションは監(jiān)督にとってどんな存在か。

ははははは。すべては「ピクニック」を撮るためにあった。シャオカンは、映畫に対する観念を一新してくれた。彼は気付いていないけれど、僕の速度についての観念を変えてくれたんだ。

「ピクニック」を撮るに至り、映畫の固定観念など、いろいろなものを捨てられるようになった。物語、臺詞、音楽。映畫の持つさまざまな固定された形式を捨てた。すべての焦點を、リー?カンションの顔のアップにあてた。

彼の顔は、時間の観念だ。ある物體が被寫體になり、それを撮る。彼の顔に浮かび上がる時間。私は20年かけて撮ることができた。彼の演技は、演技を捨て去った演技だ。彼は20年間キャベツを食べ続けた。それが「ピクニック」の、あのシーンに凝縮されている。(文?寫真/遠(yuǎn)海安)

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