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平江路が苑橋で終われば、干將河を越えた興市橋からその南、葑門までの8つの橋は蘇州一級品の古橋である。
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平江路が苑橋で終われば、干將河を越えた興市橋からその南、葑門までの8つの橋は蘇州一級品の古橋である。蘇州城內(nèi)は水上輸送から陸上自動車輸送に時代が変革する中、1980年代に入り多くの橋はその役目を終え、平橋への改築が主になった。この望星橋巷?忠信橋巷は幸い交通不便のままで生活が存続できたがためか、折橋?アーチ橋がそのまま殘った。その姿は今後とも蘇州市の財(cái)産として永久に殘らん事を切に希望する。
【その他の寫真】
興市橋南にある官太尉橋(宋代創(chuàng)建、清代數(shù)度重建)は呉郡志によると、官と言う太尉が近所に住んだ。呉王橋(呉夫差時代創(chuàng)建)、往時は東西両方に支流があり西に胭脂橋、東に仙境橋があった。呉王夫差は西施と西の錦帆渓から船に乗り、この橋で降りたので呉王橋と言われた。
葉家弄にある壽星橋(南宋西暦1178年創(chuàng)建、寫真1)は當(dāng)初は営橋と呼ばれた。付近に陶器の壽命像が出たのが由來、その南にあった百獅子橋の遺石を1965年移設(shè)改修、橋梁には武康石(浙江省徳清県産で紫色に輝く凝灰?guī)r)を使い宋代の趣が殘る(寫真2)。十梓街の東端になる望星橋(南宋紹定2年創(chuàng)建)は、城東水陸交通の要所であった。往時から多くの外來船が寄航、手紙(信)を待ち望んだと言う由來で“望信橋”と言われた。民國時代に現(xiàn)在名に変更。
西の盛家?guī)·槎嗓胫倚艠颍ㄇ宕螒c創(chuàng)建花崗巖折橋、寫真3)は當(dāng)初は中信橋と呼ばれ、同治年間に現(xiàn)名になった。春三月、蘇州大學(xué)南門にある望門橋(ここから葑門が見えた)から運(yùn)河沿いを歩くと、柳の枝や紫色の桐花が川面に映え、ゆっくりと時間が過ぎる。以上が蘇州城內(nèi)「第四直河」で是非とも訪れたい古橋である。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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