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胡廂使橋は宋時代の官職から名付けられたが、廂使(Xiang Shi)は相思(Xiang Si)に通じ、男女がお互いに思いやると言う意味で、七夕の時は橋の上で男女が密會する場所にもなった。
第四直河は別名“平江河”と呼ばれ、宋代の原型を留める運河である。歴史そのままを殘しているので、是非一度は訪問される事を希望する。橋には説明碑があり、宋時代の武康石や明?清時代の“青石”(青みを帯びた凝灰?guī)r)などの石造りを確認できる。華陽橋から約2km弱の距離だが、多くの古橋を堪能することができる。この平江河?xùn)|沿いに南北に走る街路は「平江路」と呼ばれる。
この平江河には第二橫河(干將河)の苑橋から華陽橋との間に12座の古橋があり、一つ一つに故事を持つ。南宋時代の「平江図」とも同じ場所だと斷定できる橋が12座であることから、蘇州城內(nèi)で古橋を半日で見たいなら是非とも平江路を推薦したい。宋時代から現(xiàn)存する12座の橋は、北から渓?慶林(平江図では慶暦)?保吉利(打急路)?胡廂使?唐?通利?朱馬交?衆(zhòng)安?青石(蘇軍)?勝利(慶織)?雪糕?壽安(寺後)?思婆(寺東)である。いずれも明?清時代に何度かの改修を行い、一部分に宋時代の“武康石”(浙江省徳清県産で紫色に輝く凝灰?guī)r)が殘っており、基本構(gòu)想は800年変わってないのが特徴である。青石橋(平江図では蘇軍橋)には高価な青石が全面に使われており、必見の価値がある。
胡廂使橋は宋時代の官職(廂使)から名付けられたが、廂使(Xiang Shi)は相思(Xiang Si)に通じ、男女がお互いに思いやると言う意味で、七夕の時は橋の上で男女が密會する場所にもなった。今でもこの橋の上で結(jié)婚式用の花嫁花婿の寫真を撮る光景が見られる(寫真1)。
思婆(平江図では寺東)橋は尼僧院の東にあった古橋で、尼僧の事を師(Shi)婆と呼んだが、蘇州語の曖昧な発音から思(Si)となったものだ。この通りは思婆巷と言うが、ここに住んだのが近代中國史上有名な“賽金花”(本名:趙彩雲(yún))女史である。清朝末期に蘇州の官僚“洪鈞”(清代狀元)の側(cè)室となったが、洪鈞と赴任したドイツで語學(xué)を習(xí)得、義和団事件では8カ國連合軍を率いたドイツの將軍を説き伏せ、市民との衝突を回避させた。また1930年代には日帝の進出に対しても同様に愛國的な行動をした女性であった。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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