<コラム>蘇州城內(nèi)、人民路にあった「飲馬橋」と十全街にあった「烏鵲橋」を訪ねて

工藤 和直    2020年5月6日(水) 17時0分

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蘇州城內(nèi)の人民路にあった「飲馬橋」と十全街にあった「烏鵲橋」を訪ねた。

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第三橫河は姑胥橋を渡った歌薫橋から始まる。その南の第一直河にかかる孫老橋(白居易が唐時代に創(chuàng)建:白頭橋、宋代の蘇州太守孫氏が改修?改名)がある。東行するに第二直河と合流する志成橋も改修されたが昔日を感じる橋である。東行するに現(xiàn)在の人民路(かつては臥龍街)とぶつかる橋が飲馬橋(引馬橋)である。(寫真1左)は民國時代のものであるが、城內(nèi)屈指の橋であった。晉時代、高僧が馬にこの橋の下で水の飲ませたのが由來、橋の南西部に関帝廟があった。その東に今は現(xiàn)存しない夏候橋があったが、その北は錦帆路となっている。かつてあった子城の西堀で呉王「夫差」は西施とここで船に乗り、東の呉王橋で降りたとある。

その他の寫真

第三橫河は更に東行するが、十梓街となっているため第四直河にぶつかる望星橋まで橋は存在しない。夏候橋(存在しない)から南下した支流は、帝賜蓮橋(アーチ式1984年改築、元末期の明に対抗した張士誠が母のために作る)や福民橋(平橋)が長洲路に面してある。東行するに烏鵲橋、船場橋(北は現(xiàn)在も南林飯店であるが當時は造船所であった)、南林橋(その南が南園ホテル)に至る。第三橫河に並行して網(wǎng)師園という南宋時代の庭園がある。留園と同じく當時の庭園と建築物を一望に見ることができる。

現(xiàn)在第10中學(xué)の前身が清時代の織造署であり、清乾隆帝が行幸した場所でもある。その前にあったのが織造橋(紅板橋)である。表大通りにある帯城(Dai Cheng)橋は、春秋時代からの橋である。子城の南部に位置し、呉が越に負けた時に中國四大美人「西施」が袋に入れられて、この川に投げ込まれたとか。その時、袋(Dai)が沈(Chen)と言う音韻から命名された。更に東行して星造橋(アーチ式花崗巖1984年改修、隕石で作ったともいわれる)、東呉賓館前の呉衛(wèi)橋などある。星造橋の北に迎楓橋巷がある。迎楓橋は第四直河の望星橋近くにあった。呉衛(wèi)橋を越えると百歩橋(平江図では磚橋:レンガ橋)があるが、その北に望門橋(蘇州大學(xué)の南門)があり、距離にして50m、歩いて百歩であるのでこの名で呼ばれている。この50m長の街路東に古い平屋住居があるが、蘇州大學(xué)教授の方々の住居であった。

十全街はプラタナス(法國梧桐)が実に美しい街路である。烏鵲橋は第三橫河で最大の橋である(寫真2左)。呉王夫差の時代には烏鵲館が近隣にあり、その北が呉王時代の子城だ。宋時代の平江府南門の延長になり、南行するに城門(蛇門)にあたる。蛇門はその所在が明らかでないが、蘇州城のちょうど南の位置(平城京羅城門にあたる)で、かつて杭州に行く観光船の発著場あたりが“蛇門”と推定する(民國時代に蛇門の記載があるが、この位置は呉王夫差時代の蛇門の東50mの位置である)。烏鵲橋がどれだけの橋であったか、今では知ることもできないが、白居易の漢詩に、「烏鵲橋は紅く夕日を帯びる?という夕方の詩や「烏鵲橋の端の氷がまだ消えず」という冬の詩がある。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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