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米華字メディアの多維新聞は28日、「日本の子どもに見るこの國の未來」と題するコラム記事を掲載した。著者はコラム作家の張豊氏。資料寫真。
米華字メディアの多維新聞は28日、「日本の子どもに見るこの國の未來」と題するコラム記事を掲載した。著者はジャーナリストでコラム作家の張豊(ジャン?フォン)氏。以下はその概要。
一昨日、(日本の)地下鉄に乗った。ちょうど小學生が帰る時間だ。數(shù)人の子が一緒に乗っていた。身體は小さく、たぶん小學1年生だろう。彼らは列車の中でぺちゃくちゃとおしゃべりしていた。毎日電車で通學しないといけないのだから大変だ。中國と異なるのは、日本の小學生は保護者が送り迎えをせず、自分たちで通學するというところだ。
私が住んでいる家の近くでも見たことがある。數(shù)人の子どもが一緒に信號を待っていた。肌は黒く焼けていて、ランドセルは色鮮やかだ。保護者は子どもの安全に不安を抱くことは全くない。
私が子どものころ、中國の農(nóng)村の學校に通っていた時も同じだった。家族に送り迎えをしてもらったことは一度もない。親は自分の子どもが無事に帰宅すると信じて疑わなかった。(日本と)違うのは、當時の農(nóng)村は非常に後れていたということ。電車どころか、電気もなかった。そこは知っている人しかいない環(huán)境だった。あの時の安心感は、大人同士が互いにつくり上げたものだった。
日本はもちろん違う。日本は真に現(xiàn)代的な、他人同士の社會だ。子どもが通學するには複雑な交通経路を行かなければならず、未知の事象にも遭遇する。こうした狀況で安心感を得るのは非常に難しい。
私が見る限り、日本の親の子どもに対する姿勢は、私が子どもの時の感覚と似ているところが多い。夏、子どもは外で思い切り遊び、真っ黒に日焼けする。両親はもちろん子どもを愛しているが、獨立性にも気を配る。この獨立性は、中國の親が口癖のように言う「子どもの獨立」ではなく、親がまず獨立するということだ。
友人と食事をした時のことだ。彼女は高校生の娘を一緒に連れてきた。その子はずっと本を読んでいた。かばんを持ってみたら、軽く見積もっても5キロ以上はあった。私は友人に「子どものかばん、重すぎるんじゃないか」と言った。友人はうなずいたが、特に大きな問題とは感じていないようだった。外は大雨だった。娘は自分でかばんを持ち、傘を差した。親に手伝ってもらうという意識は全くないようだった。
これこそが獨立だ。背景には日本社會の雰囲気がある。安心感があり、責任感がある。誰もが自分に責任を持つ必要があるのだ。
日本の街では大きなかばんを擔いだ子どもをたくさん見かけるが、おじいちゃん、おばあちゃんの姿はない(※中國では子どもに付き添い、荷物を持つ高齢者が多い)。年寄りはどこに行ったのか。彼らは自分の生活をしている。
児童の少林寺拳法と空手の全國大會を見たことがある。開會式で、司會者は注意事項を説明する。「國のために奮闘せよ」といったことは全く言わず、その代わりに必ず強調されるのが「地震が起きたらどうするか」「どのように周囲の友達に気を配るか」「トイレに行きたくなったり迷ったりしたら誰に聞けばいいか」だ。
このように、運動會が一種の公共教育のプラットフォームになっている。おそらく、(日本では)類似の社會教育は非常に多いだろう。子どもは小さい時から、社會とは何かを認識し、緊急事態(tài)にどのように対処すべきかを知るのだ。親の安心感とは、このような社會から生まれるものだ。(翻訳?編集/北田)
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