<コラム>中華人民共和國(guó)の首都にある、北京城門(mén)と城壁を探索する

工藤 和直    2019年3月3日(日) 9時(shí)10分

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北京古城の城壁は元の時(shí)代に由來(lái)し、明の時(shí)代に形成されたものとされる。當(dāng)時(shí)、元の時(shí)代には城壁に11の城門(mén)があった。

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北京が都市として形成されたのは約3040年前のことであり、昔は「薊:ji」と呼ばれていた。周代になると、北京は?薊?と正式に名付けられ、城が築かれ國(guó)としての形が出來(lái)上がった。戦國(guó)時(shí)代になると、當(dāng)時(shí)の強(qiáng)國(guó)の一つであった?燕?の都となり、発展を遂げた。その後、秦漢代は北平と稱(chēng)され、唐代には?幽州?と呼ばれ、遼代には國(guó)の第二の都市になった。金代の中期になると城壁が築かれ?中都?と呼ばれるようになる。

その他の寫(xiě)真

元時(shí)代の北京は「大都」と呼ばれた。モンゴル族の支配により北京にはモンゴル風(fēng)の文化と漢族文化が混在していた。元の大都は今の北京中心部とほぼ同じ位置で明清代よりも北に位置し、內(nèi)城を北に伸ばしたほぼ四角形狀であった。マルコポーロもこの大都を訪(fǎng)れている。北京古城の城壁は元の時(shí)代に由來(lái)し、明の時(shí)代に形成されたものとされる。當(dāng)時(shí)、元の時(shí)代には城壁に11の城門(mén)があった。この11城門(mén)のうちの9城門(mén)「正陽(yáng)門(mén)?崇文門(mén)?宣武門(mén)?安定門(mén)?徳勝門(mén)?東直門(mén)?西直門(mén)?朝陽(yáng)門(mén)?阜成門(mén)」を北京城の九門(mén)と定めた。つまり人々がよく口にする「內(nèi)九城(內(nèi)側(cè)に位置する九つの城門(mén))」である。

明朝はもともと南京を首都としていたが、三代目永楽帝の時(shí)に北平を北京と改稱(chēng)し、首都を移した。永楽帝は大都の南城壁を南方向に800m移動(dòng)させ、中央にあった麗正門(mén)が現(xiàn)在の正陽(yáng)門(mén)になった。今の北京の基礎(chǔ)は明代に作られたといっても過(guò)言ではない。清朝は北京を都としたが、民國(guó)時(shí)代は南京を都としたため北平に戻り、解放後は再び北京と改稱(chēng)された。

內(nèi)城は、俗に言う北京城で、周?chē)?2kmで9つの門(mén)がある。この9つの門(mén)のうち、現(xiàn)存しているのは正陽(yáng)門(mén)(前門(mén))という故宮の真南にある門(mén)と、徳勝門(mén)という北西門(mén)である。外城には7門(mén)がある。內(nèi)城南に出っ張るような形狀で、言ってみれば「下町」のような場(chǎng)所である。周?chē)?4kmほどである。周?chē)?4kmの長(zhǎng)餅の上に、22kmの角餅が乗っている「凸型形狀」であるのが特徴だ。また、皇城には4つも門(mén)がある。東西南北で言えば、東安門(mén)、西安門(mén)、天安門(mén)、地安門(mén)である。

北京城壁は解放後1953年~57年頃、地下鉄を作る為に取り壊され大街(例えば前門(mén)東大街)となり、地下が地下鉄環(huán)狀線(xiàn)(2號(hào)線(xiàn))となった。北京の地下鉄環(huán)狀線(xiàn)は、ちょうど東京の山手線(xiàn)のように、北京內(nèi)城をぐるりと回っている市民の足である。この環(huán)狀線(xiàn)には駅が18ある。そのうちの11駅に最後の文字?門(mén)?が付けられている。駅の上に城門(mén)があったのだ。

東便門(mén)の角樓は、明?清の北京の城壁の角にあった四つの角樓のうち唯一殘っているもので、北京內(nèi)城の東南の角にそそり立つ四層の、高さ29mある中國(guó)風(fēng)の砦である(寫(xiě)真1)。復(fù)興門(mén)の城壁遺構(gòu)は明代のもので、北京の內(nèi)城の遺構(gòu)である。城壁の高さは12mで、両側(cè)にレンガを積み上げて造られている。

すべての城門(mén)には獨(dú)特な用途があり、城門(mén)にはそれぞれ役割があった。また、異なる類(lèi)型の車(chē)両が通っていたので、「九門(mén)には九車(chē)が出でる」と呼ばれていた。西直門(mén):水を運(yùn)び込む門(mén)、阜成門(mén):石炭を運(yùn)び込む門(mén)、宣武門(mén):死刑囚が刑場(chǎng)に向かう門(mén)、正陽(yáng)門(mén):正門(mén)、崇文門(mén):稅関、朝陽(yáng)門(mén):穀物を運(yùn)び込む門(mén)、東直門(mén):木材を運(yùn)び込む門(mén)、安定門(mén):し尿や死體を運(yùn)び出す門(mén)、徳勝門(mén):凱旋門(mén)、が當(dāng)時(shí)の役割であった。

1953年以前にあった城門(mén)城壁を(寫(xiě)真2)に示す。現(xiàn)存するのは、正陽(yáng)門(mén)?徳勝門(mén)(いずれも部分改築されている)である。徳勝門(mén)は內(nèi)城北西部に張り出した箭門(mén)として現(xiàn)存する門(mén)だが、なぜか門(mén)と言うが孔がない。土木の変(西暦1449年)では、よく明軍がこの門(mén)前でモンゴル軍を防いだという。また、崇文門(mén)から東便門(mén)にかけては城壁が保存されており、昔日の姿を鑑賞することが出來(lái)る。

 

建國(guó)門(mén)は、天安門(mén)前の長(zhǎng)安街を東に行き、東第二環(huán)狀線(xiàn)が交差する所にあった。この門(mén)は、1939年に日本軍が城壁を壊して利便性のために作り、1940年には「后明門(mén)」と呼ばれ、1945年終戦後、國(guó)民黨によって「建國(guó)門(mén)」と改稱(chēng)された。この門(mén)は、北京城9門(mén)とは違う歴史を持つ。

建國(guó)門(mén)北西部に戦前「北京神社」が創(chuàng)建された(寫(xiě)真3)。建國(guó)門(mén)緑化公園から中國(guó)社會(huì)科學(xué)院にかけての貢院西街一帯が貢院といわれ、清朝1905年まで実施された「科挙」の試験場(chǎng)である?,F(xiàn)在、建國(guó)門(mén)の南東部に北京日本商工會(huì)などが入っている「長(zhǎng)富宮飯店」がある。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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