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1915年から1945年の30年間、2度にわたって日本の統(tǒng)治下に置かれた山東省青島市に4萬とも5萬ともいわれる日本人が住んでいた。
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1915年から1945年の30年間、2度にわたって日本の統(tǒng)治下に置かれた山東省青島市に4萬とも5萬ともいわれる日本人が住んでいた。かつて街のいたるところでは「中野町」「伊勢町」「橫須賀町」「姫路町」といった日本名が名づけられ、著物を著た日本人が往來を歩いていた。
【その他の寫真】
青島神社は大正4年(1915年)、青島守備軍がモルトケ山(若鶴山)西側(cè)山腹の約6900坪を社地と定め、大正6年(1917年)5月に青島守備軍司令官から工事開始の正式認可を取り、大正7年5月には地鎮(zhèn)祭を執(zhí)行したのち社殿その他の建物の建築工事を開始。翌大正8年(1919年)11月7日、無事に竣工した。青島神社は天照大神?大國主命?明治天皇を祭神に迎えて鎮(zhèn)座した。青島神社は若鶴山(現(xiàn)貯水山)の中腹に鳥居?拝殿?幣殿?本殿からなる荘重な社殿で構(gòu)成されていた。青島神社から青島大港など膠州灣沿岸、ならびに青島日本第一尋常小學校やその付近の日本人住居區(qū)(川崎町)を一望でき、素晴らしい眺望に恵まれていた。神社への入口は大鳥居のある表參道、黃臺路につながる南門、吉林路に出る北門の3カ所があった。
青島神社を正面から見ると、高さ約15メートル、幅10メートルの明神型石造大鳥居とその両側(cè)に大型の石燈籠が並び立っていた(寫真1)。大鳥居に続く參道の両側(cè)には桜の若木が植樹されていた?,F(xiàn)在はヒマラヤ杉に植え替えられているが、銀杏木などは昔のままと思われる。參道を登り切ると広場があり、右手に手水舎があったようだ。その先には社殿に繋がる109段の石造階段(寫真2)が見え、階段を登りきると社殿前に木製鳥居があった。この木製鳥居の基礎(chǔ)石(亀腹)が現(xiàn)存している事に驚いた(寫真3)。
また、階段を登った左右に石燈篭の基礎(chǔ)石も殘っていた(寫真4上)。この奧に(寫真3)にあるような本殿があったが、今は青島有線電視臺になっている。電視臺前は広い駐車場となっており、社殿跡はまったく見られない。この青島神社は靖國神社の2倍の面積であったという。大鳥居があった付近は現(xiàn)在、遼寧路科技街バス停対面である。
青島に駐留する日本人にとって、青島神社は「我らの鎮(zhèn)守様」であった。例祭では川崎町(益都路)や大和町?瀬戸町?若鶴町など日本人街にある商店を中心にして、若い衆(zhòng)による神輿が奉納され、109段の石段を威勢よく駆け上がる風景が見られたという(寫真4下)。終戦の日(1945年8月15日)午後には、青島守備隊の軍人が結(jié)集し一時物騒がしくなった。最後の宮司であった宮崎氏は、12月20日に青島神社を閉社して帰國し、ご神體を明治神宮に奉納してその職を終えた。
翌1946年4月20日、一般在留邦人が最後の引揚船で帰國にあたり、全員が神社參拝をした後、米軍トラックで桟橋に移動した。筆者は2017年7月31日に13年半に渡る中國駐在を青島で終え、帰任することになったが、帰國日早朝に青島神社跡に參拝し、誰もいない本殿前で拍手を打ってから青島流亭國際空港に向かった?,F(xiàn)在、青島神社跡は児童公園となっているが、舊満州の新京神社(長春市)や済南神社と同じく、ここに神社があった事を感じさせる心霊スポットである。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學大學院工學研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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