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山東省青島市北部にある四流中路×永平路の東に西大村河が流れているが、その河を越えると滄口飛行場(chǎng)がある。寫真は筆者提供。
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山東省青島市北部にある四流中路×永平路の東に西大村河が流れているが、その河を越えると滄口飛行場(chǎng)がある?,F(xiàn)在は軍用飛行場(chǎng)であるが、青島流亭國(guó)際空港が出來(lái)るまでの1933~1958年、民間飛行場(chǎng)として使用された。1932年、現(xiàn)在の李滄區(qū)四流中路1號(hào)に中國(guó)航空公司が創(chuàng)設(shè)され、1933年から上海-南京-海州(連雲(yún)港)-青島(滄口)-天津-北平(北京)航路が開通(1427キロメートル)、C-46、C-47機(jī)材を用い週3便で運(yùn)行した。
【その他の寫真】
1939年、日本軍占領(lǐng)後は大日本航空青島出張所となり、東京(立川)-大阪(木津川)-福岡(雁の巣)-蔚山-京城(ソウル?汝矣島)-平城-大連(周水子)の航路に加え、京城(汝矣島)-青島(滄口)-北平(北京)の新航路を運(yùn)行した。當(dāng)時(shí)の運(yùn)行記録を見ると、東京から大連まで2日間(途中、給油中継しながら)を要していた事から、東京→北京もほぼ同じ時(shí)間を要していたと思われる。當(dāng)時(shí)の東京(立川)→大阪(木津川)間は2時(shí)間半を要しており、現(xiàn)在の新幹線と同程度の時(shí)間を要していた。木津川飛行場(chǎng)(寫真1)は木津川が大阪灣に出る河口北部にあり、現(xiàn)在は中山製鋼の工場(chǎng)になっている。木津川尻と呼ばれた。
大日本航空(株)は1938年11月28日に作られた國(guó)策會(huì)社(前身が日本航空輸送)で、機(jī)材としては中島AT-2/三菱MC-20(寫真2)の國(guó)産機(jī)に加え、ライセンス生産していた米ダグラス製DC-2/DC-3を使用していた。當(dāng)時(shí)の航空産業(yè)は歐米が先行していたが、アジアでは日本の航空業(yè)界が同程度の航空技術(shù)を持っていた。その後のゼロ式艦上戦闘機(jī)(航続距離2200キロメートル)を筆頭に、世界の航空界をリードしていたが、戦後11年間は連合國(guó)最高司令官総司令部(GHQ)によりあらゆる航空技術(shù)開発を禁止されたがため、その技術(shù)的地位を歐米に奪われた。
大日本航空は、1940年に福岡-沖縄-臺(tái)北-広東-ハノイ-サイゴン-バンコクの東南アジア便も運(yùn)行し、オランダKLM航空は歐州(アムステルダム)から植民地のインドネシアまで世界最長(zhǎng)の航空路線を持っていた。給油中継しながら10日間、飛行時(shí)間は81時(shí)間と記録されている。あわせて、バンコクまで運(yùn)行していたので、船便でなくても飛行機(jī)で歐州まで行く事は可能であった。當(dāng)時(shí)の日本郵船の橫浜→歐州海路便は50日を要していた。また當(dāng)時(shí)は客室乗務(wù)員を「エアーガール」と呼んでいた(寫真3)。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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