<コラム>中國(guó)四大美人「西施」が歩いた蘇州古城とは

工藤 和直    2018年12月8日(土) 5時(shí)10分

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蘇州古城は、北は國(guó)鉄線、東西南は高速道路に囲まれ、外周は水堀に囲まれている。寫(xiě)真は筆者提供。

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蘇州古城(呉大城)は、北は國(guó)鉄線、東西南は高速道路に囲まれ、外周は水堀に囲まれ、東西3.5キロメートル?南北4.5キロメートルの長(zhǎng)方形狀で、外堀に沿って周?chē)欷?7里(23.5キロメートル、中國(guó)の1里=500メートル)?高さ7メートルの城壁で囲まれ、中央に子城という宮城がある“二重構(gòu)造”である。古城としての面積は、北京(63平方キロメートル)、南京(40平方キロメートル)に次いで第3位(14平方キロメートル)で、西安(12平方キロメートル)、杭州(12平方キロメートル)、成都(11平方キロメートル)よりも広い。現(xiàn)在の蘇州市の中核は、この古城を基本として構(gòu)成されている(寫(xiě)真1は蘇州駅前にある平門(mén))。

その他の寫(xiě)真

春秋時(shí)代の紀(jì)元前514年(約2500年前)に、呉王?闔閭(こうりょ)のもとで伍子胥(ごししょ)が企畫(huà)したという。呉越春秋によると、城市は周?chē)?7里(23.5キロメートル)の広大な土地の四方に城壁をまわし、各辺に8つの水陸門(mén)を設(shè)けた。城內(nèi)には三橫四直と呼ばれる幹線水路が通され、陸門(mén)と並んで設(shè)けられた水門(mén)から外城河に繋がっている。近郊の運(yùn)河は、隋時(shí)代に煬帝によってさらに拡張され、江南運(yùn)河が開(kāi)かれた。これが物資の集散に大きな力を発揮し、蘇州を江南一の商都に押し上げた。

蘇州古城は闔閭城とも言い、風(fēng)水から現(xiàn)在見(jiàn)られるような「西に山並み、東に湖畔(沼地)」を基本とする姑蘇山から東北15キロメートルの現(xiàn)在地に定められた?!冈浇~書(shū)」に、蘇州古城は現(xiàn)在の玄妙観にある付近の極めて小さい小城であったが、最終的には戦國(guó)時(shí)代に周?chē)?8里60歩(約34キロメートル)の外廊、現(xiàn)在の周?chē)?7里210歩の大城と周?chē)?里(4.5キロメートル)の子城といわれる王宮(現(xiàn)在の十梓街?錦帆路?葉家巷と北の干將河に囲まれ、宋時(shí)代の平江府と呼ばれた地域を含む)がある“三重構(gòu)造”だったと書(shū)かれている。

中國(guó)では、天は円形で地(人間が住む)は長(zhǎng)方であるという「天円地方」の宇宙感がある。3600年前の商(殷)王朝初期に都となった現(xiàn)在の鄭州市は、円狀12キロメートルの外城の中に、周?chē)?キロメートルの長(zhǎng)方形の內(nèi)城、その內(nèi)に周?chē)?.5キロメートルの宮城の三重構(gòu)造となっている。また、蘇州古城とほぼ同時(shí)代に創(chuàng)建された常州市(蘇州の北西80キロメートル)にある淹城遺跡を見(jiàn)ると、同じく“三重構(gòu)造”になっている。その後の開(kāi)封市(北宋の都)や東北の奉天府(瀋陽(yáng)市)でも同じく、円狀の外城の內(nèi)部に四方形の內(nèi)城?宮城の構(gòu)造が見(jiàn)られる“三重構(gòu)造”である。

この蘇州古城外廊の位置は現(xiàn)在不明で、単純比例計(jì)算すれば、子城中心から約4~5キロメートル離れた所に、円形(もしくは楕円狀)の外廊(または堀や柵)があった事になる。グーグルの航空寫(xiě)真から見(jiàn)ても、突起物や城壁などはどこも見(jiàn)られない。ただ、(地図1)をじっと見(jiàn)ると、周?chē)欷驀欷噙\(yùn)河(堀河)が目に入る。漢史?越絶書(shū)?呉越春秋?姑蘇史などの文獻(xiàn)から、蘇州大城の周辺には30以上の出城が記録されている。代表的なのは石湖北東部にある越城、相門(mén)外の鴨城、橫山付近の魚(yú)城、樓門(mén)外の鴻城、園區(qū)唯亭にあった太公城?章祈城などであるが、これら大城周辺の出城と運(yùn)河がつなぐ68里(34キロメートル)の城郭になるのではと想像できる。

2500年の長(zhǎng)きに渡り多くの為政者に統(tǒng)治され、10度に渡る戦災(zāi)で興亡の憂き目にあったが、大城の構(gòu)造は現(xiàn)在に至るまで不変である事に驚きを感じ得ない。街並みを歩く度に、呉王?夫差(闔閭の子)や西施(春秋時(shí)代の越の美女。呉に敗れた越王?勾踐が呉王?夫差に獻(xiàn)上した。中國(guó)四大美女のひとりに數(shù)えられる)に會(huì)うのでないかと思わせるのが、この城郭都市の特徴である。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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