<コラム>青島にあるかつての日本の紡績工場は高層住宅地に変貌している

工藤 和直    2018年10月15日(月) 23時30分

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國綿第七工廠(山東省青島市興國路15號)は、1921年10月富士瓦斯紡績(富士紡)として滄口で初めて操業(yè)を開始。興華路華泰新苑から北側(cè)、四流中路の東側(cè)にあった。

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國綿第七工廠(山東省青島市興國路15號)は、1921年10月富士瓦斯紡績(富士紡)として滄口で初めて操業(yè)を開始。興華路華泰新苑から北側(cè)、四流中路の東側(cè)にあった。1922年には、13萬坪の敷地に日本人50人?中國人1500人が働いていた。1923年には、舊満州遼陽に満州紡績を建設(shè)し、1924年から操業(yè)を開始している。戦後、富士紗廠となり、解放後に國綿第七工廠、1985年1月に青島第二毛紡績廠となった。四流中路側(cè)にある華泰新苑が當(dāng)時の工場入口になる。2007年になると他の工廠より早々に撤退を始め、現(xiàn)在は翠海依居として総合高層住宅となって工場の痕跡を確認できなかったが、近所に國営時代の七廠幼稚園が殘っていた(寫真1)。

その他の寫真

國綿第八工廠(ベン陽路1號)は、営子村と板橋坊の西南海側(cè)にあり、國光紡績として1923年に操業(yè)、1936年10月に生産開始した。1941年に倉敷紡績と合併後は14萬坪の敷地に日本人50人?中國人2000人が働いていた。戦後、同興紗廠の名稱となり普中路33號付近に、當(dāng)時の事務(wù)所跡や工場跡地が確認できる(寫真2)。また、日本式?洋式の従業(yè)員社宅が工場內(nèi)に現(xiàn)存している。2010年以降、この工場跡地は遠東海岸華府という高層住宅に変貌しつつある(寫真3)。

國綿第九工廠(永平路)は長崎紡績青島支店として1921年10月に5萬6151坪で操業(yè)を開始、日本人45人?中國人1900人が記録されている。発端は1902年にドイツ商人が設(shè)立。1913年に青島華新紗廠、その後國民黨中紡青島分公司寶來紗廠と名稱変更。解放後に九大紗廠となり青島では唯一の民営紡績會社としての実績を殘し、1963年に國綿第九工廠となった(1990年まで約80年間存在した)?,F(xiàn)在工場は、(寫真4)のように青島紡績企業(yè)管理センターの下に一綿?華新?六綿?八綿有限公司となっている。永平路?四流中路?太原路の三角地に住宅があったが、現(xiàn)在は更地になっていた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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