拡大
山東省青島市において、日系紡績(jī)企業(yè)が進(jìn)出するまで近代工業(yè)はほとんど存在していなかったが、有利な工業(yè)立地條件と優(yōu)位な経営環(huán)境の下で、紡績(jī)繊維工業(yè)が飛躍的に発展した(中國(guó)大陸の綿花生産の40%が山東?。?xiě)真は筆者提供。
(1 / 2 枚)
山東省青島市において、日系紡績(jī)企業(yè)が進(jìn)出するまで近代工業(yè)はほとんど存在していなかったが、有利な工業(yè)立地條件と優(yōu)位な経営環(huán)境の下で、紡績(jī)繊維工業(yè)が飛躍的に発展した(中國(guó)大陸の綿花生産の40%が山東省)。青島の工業(yè)化は日本企業(yè)の資本投下から始まった。
日系紡績(jī)企業(yè)は中國(guó)大陸進(jìn)出にあたり、まず上海に展開(kāi)、その後青島に集中した。上海では紡績(jī)工場(chǎng)は日本國(guó)內(nèi)と同じく女性(女工)が中心であったが、青島は逆に男性(男工)が多數(shù)を占めていたことが1929年に起こった青島糸廠労働爭(zhēng)議での解雇割合から理解できる。日系企業(yè)の特徴として、技術(shù)労働者に対する教育訓(xùn)練システムがあったことと、労働者への寄宿制度と福利厚生制度としての醫(yī)療?食堂?體育設(shè)備?倶楽部制度などが確立されていた(鐘紡跡に痕跡を確認(rèn)できる)。
日本から紡績(jī)事業(yè)を移転するにあたり、先端的技術(shù)ばかりでなく生産現(xiàn)場(chǎng)の技術(shù)者に対しても日本國(guó)內(nèi)と同じく、教育訓(xùn)練が実施された。これは繊維産業(yè)以外のあらゆる産業(yè)にも言える。戦後、中華人民共和國(guó)になっても中國(guó)が繊維産業(yè)を含む多くの工業(yè)に対して著しい進(jìn)歩ができた背景に、こういう技術(shù)者への日本式育成プログラムの存在があったからとも言える。
大正5年(1917年)青島守備軍民生部の基本方針として、まず「市街地を大港方面に拡張し、ここに商工業(yè)地區(qū)を建設(shè)する」であった。さらに、青島東北部の臺(tái)東鎮(zhèn)からその北部の四方?滄口までを包括する「大青島」を模索実現(xiàn)することになった。この日本政府の方針と相まって、當(dāng)時(shí)1、2を爭(zhēng)う日系紡績(jī)會(huì)社が新たに青島市北部に造成された広大な四方?滄口地區(qū)に進(jìn)出した。
1916年(大正5年)以降、四方地區(qū)に內(nèi)外綿(シキボウ)を皮切りに、大日本紡績(jī)(ニチボーその後ユニチカ)?日清紡績(jī)?鐘淵(カネボウ)?富士瓦斯紡績(jī)?長(zhǎng)崎紡績(jī)?豊田紡績(jī)(トヨタ)?國(guó)光紡績(jī)(クラボウ)などが進(jìn)出、戦後中國(guó)側(cè)に接収され解放後は國(guó)綿第一工廠から第九工廠と名稱変更されて近代中國(guó)の工業(yè)を支えた(図1)。
かつて日本に大手紡績(jī)會(huì)社として10社(十大紡)があった。大日本?東洋?鐘淵?富士?日清?倉(cāng)敷?大和?敷島?日東?呉羽(東洋紡と合併)である。
1937年日中戦爭(zhēng)直後、日本軍占領(lǐng)対策に対抗して全ての日系紡績(jī)會(huì)社が破壊焼滅されたが、1938年1月10日の日本軍第二次占領(lǐng)後に再興された。解放後の1950年~90年初までが青島市経済発展に一番貢獻(xiàn)した40年であった。その後、繊維工業(yè)が低迷するなか、広大な敷地は整地されて次第に高層アパート等の住宅地に改裝されたが、築80年を越える日本式建築の事務(wù)所?工場(chǎng)?西洋風(fēng)住宅がまだ一部に殘っている(寫(xiě)真1)。
現(xiàn)在、この工場(chǎng)群は築80余年以上と老朽化し、その大半が住宅として立て替えられつつある。中には一部が博物館となって日本工業(yè)の源泉を垣間見(jiàn)ることができる工場(chǎng)もある。青島國(guó)綿工廠(第一工廠~第九工廠)について當(dāng)時(shí)の寫(xiě)真や現(xiàn)在の寫(xiě)真を見(jiàn)ながら、中國(guó)近代工業(yè)を擔(dān)ってきた當(dāng)時(shí)の日系企業(yè)の姿を振り返ってみたい。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
Record China
2018/9/1
Record China
2018/8/31
Record China
2018/8/30
Record China
2018/8/30
Record China
2018/8/27
ピックアップ
we`re
RecordChina
この記事のコメントを見(jiàn)る