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中國江蘇省南京市の地下鉄1號線の珠江路駅を降りて西、南京市鼓樓區(qū)五臺山1號五臺山體育中心東側(cè)に、南京神社參拝殿(祭神:天照大神)が現(xiàn)存する。寫真は筆者提供。
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1937年(昭和12年)7月7日の日中戦爭勃発後の12月13日は、南京大虐殺記念日として毎年大々的な政治イベントが開催され、その関係もあるのか揚(yáng)子江デルタに進(jìn)出する日系企業(yè)は省都にも関わらず極めて少ない。南京市は古くから長江流域?華南の中心地であり、三國時代の呉?東晉、南朝時代の宋?斉?梁?陳、十國時代の南唐やその後の明といった王朝、近年では中華民國政府首都ともなった?,F(xiàn)在は江蘇省都である。
【その他の寫真】
地下鉄1號線の珠江路駅を降りて西、南京市鼓樓區(qū)五臺山1號五臺山體育中心東側(cè)に、南京神社參拝殿(祭神:天照大神)が現(xiàn)存する(寫真1)。拝殿部は木造で、幣殿と本殿はコンクリートで結(jié)合?改裝されている。西側(cè)石垣には消えかけているが、昭和17年と読める礎(chǔ)石がある(寫真2)。設(shè)計者は高見一郎、1939年10月6日に日本軍総司令部著手、奉斎會理事會で本営趣意書発布。1941年5月2日護(hù)國神社(日本軍人戦沒者を祀る)が先に工事著手、南京神社は1941年10月に著手した。護(hù)國神社の西隣が南京神社となった。1943年11月鎮(zhèn)座祭、翌1944年竣工(敷地2萬9000坪)となった。南京護(hù)國神社が主體であったので、社務(wù)所は護(hù)國神社參道側(cè)にある(寫真3)。
現(xiàn)在永慶巷から體育賓館大門までの體育館路が南京神社參道であり、この延長の永慶巷出口に一の鳥居はなく、現(xiàn)在は軍関係施設(shè)で內(nèi)に入ることはできない社務(wù)所南面から左斜めに參道があり、永慶巷に交わる位置(上海路に近い)に一の鳥居があったようだ(寫真4の赤點(diǎn)線が參道を示す)。江蘇體育賓館大門に二の鳥居があったといわれるが、社務(wù)所側(cè)にもあったのではないかと予想する。鳥居は高さ10メートル、幅6メートルの明神鳥居型であった。社務(wù)所側(cè)に二の鳥居があったと仮定すると、參殿前の2カ所とあわせ5カ所に鳥居があった事になる。また、參拝殿前の鳥居は戦後もしばらくは存在した。
付近の方に聞くと、南京神社は「大廟」と言い、50メートル離れた社務(wù)所は「小廟」と言っているが、小廟は本來南京神社東橫にあった護(hù)國神社のことである。南京神社拝殿?幣殿?本殿は體育局老干部活動中心として卓球運(yùn)動員訓(xùn)練場として使われた。現(xiàn)在は五臺山1號建築-1として江蘇省建工集団第七建築公司となり、社務(wù)所は五臺山1號建築-2(日本神社舊跡)として體育局老同士之家となっている。(寫真4)の五臺山南京神社は、神社周辺の航空寫真を基に現(xiàn)在?過去の寫真を重ねたものである。
1945年終戦後、南京神社は國民黨「中國抗戦陣亡祈念堂」、護(hù)國神社は戦利品陳列館となり、解放後は江蘇省體育局管轄となった。もともと日本神社構(gòu)想の前に、體育場構(gòu)想があったので、もとに戻ったとも言える。付屬建屋の多くは、その後1982年ごろまでには切除された。
松本康隆「日本の敗戦後における舊南京神社の歩み」に、建築學(xué)的見地から南京神社について詳細(xì)な記載がある。又、何故に社殿が壊されなかったかの疑問に対し、(1)戦後國民黨軍が戦沒者慰霊堂として英霊を祀るという機(jī)能的類似性、(2)開放後は體育施設(shè)として利用可能な建築遺産となった、(3)その後歴史的建築遺産としての価値の3點(diǎn)を示唆している。ただ、(2)(3)の経緯の間に文化大革命という悲慘なる歴史があり、破四舊運(yùn)動(古い思想?文化?風(fēng)俗?習(xí)慣の打破)で一番先に破壊されるべき日帝の遺産に手をつけなかったのは、當(dāng)時非常に利用価値が高かった(練習(xí)場や集會所として使ったか)と思われる。
同じく山東省シ川神社(シ=さんずいに緇の糸なし)本殿もコンクリート造りであったがため、利用価値が高く殘ったと思われる。ただ、利用価値としては少なく宗教的意味合いのみが強(qiáng)い鳥居が、長春神社と瀋陽(奉天)の文官屯神社跡にあるのは、何故か。教育の場(幼稚園や大學(xué)構(gòu)內(nèi))として切除が避けられたのか、疑問が多く殘る。この暑い初夏の日、南京神社參拝殿前で二禮?二拍手?一禮の儀式に則り參拝をしたが、違和感はなかった。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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