<コラム>中國一の美人女優(yōu)「ファン?ビンビン」と歩く、煙臺日本領(lǐng)事館跡

工藤 和直    2018年5月13日(日) 16時30分

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煙臺(Yan tai)市は山東省に位置し、北は渤海灣に面し、東は威海に南と西は青島に接する山東半島東部にある港灣都市である。寫真は筆者提供。

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煙臺(Yan tai)市は山東省に位置し、北は渤海灣に面し、東は威海に南と西は青島に接する山東半島東部にある港灣都市である。山東省最大の漁港であり、最初期に対外経済開放された沿岸都市の一つで、環(huán)境の良さ、景観の良さ、投資環(huán)境の良さから海外からも全中國からも多くの人が集まる。煙臺市の西寄りにある「芝罘」(ツゥーフゥー、Zhi fu)という陸繋島に由來が始まる。今日の「煙臺」という名は明の洪武帝の治世だった西暦1398年(洪武31年)ごろ、煙臺山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる烽火臺が建設(shè)され、これが「煙臺」と呼ばれる所以とも言われる。

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煙臺は、春秋戦國時代には斉の領(lǐng)土であった。秦代には斉郡に、前漢の時代には東萊郡に屬した。始皇帝は3回、武帝は1回芝罘島を訪れたといわれている。隋の時代に萊州、唐?宋?元の時代に登州や萊州が置かれた。明?清の時代には萊州府、後に登州府が置かれた。1858年7月、清は天津條約を結(jié)び、登州は「煙臺」と改名され西洋諸國に開港されることとなったのは、1856年の第2次アヘン戦爭時にイギリス?フランス連合艦隊が煙臺を占領(lǐng)したことによる。1860年6月にフランスが煙臺山を占領(lǐng)し、ここに軍司令部を置いた。煙臺は1861年5月に外國商人たちに対して開港し、煙臺山周辺に17カ國が領(lǐng)事館を設(shè)置した。この一角は「領(lǐng)事館街」の様子を帯びることになった。

1866年フランスが撤退するに及び、外國人と中國人による萬國委員會が行政を擔(dān)うようになった。1876年に芝罘條約が結(jié)ばれ、漁港だった煙臺はイギリスの條約港となり急速に共同租界地化した。20世紀(jì)初頭に山東半島全域でドイツ帝國の力が増すと、煙臺もドイツに支配されることとなった。また、清も北洋艦隊の拠點とし、1903年に設(shè)置された煙臺海軍學(xué)校は1928年まで中國の海軍士官を育成した。1905年には、日露戦爭後の講和會議の開催候補地のひとつにもなった。

第一次世界大戦でのドイツの敗戦により、煙臺はアメリカ海軍アジア艦隊の夏の駐留港となった。日本も交易のために煙臺に拠點を置き、両國の影響が市內(nèi)の政治や建物様式に及ぶことになった。煙臺山の南にも多くの領(lǐng)事館や郵便局などがあり、フィンランド領(lǐng)事館などは今では雑貨店となっている。煙臺は不思議なくらい西洋の香りがする町である。逆にイギリスの租借地であった威海市街には英國の匂いが少ない。

煙臺山は観光地化されて、入口で入場料60元を払って徒歩による観光である。入口すぐ北がアメリカ領(lǐng)事館、右手にイギリス領(lǐng)事館、その奧にデンマーク領(lǐng)事館と、非常に小ぶりの建物が続く、煙臺(芝罘)日本領(lǐng)事館はデンマーク領(lǐng)事館から見ると西の端にあたる。他の領(lǐng)事館と異なりまったく標(biāo)示がない(寫真1)。車2臺が離合できる程度の細(xì)い路が煙臺山を巡っている。ここは車より歩くのが一番似合っている。木陰に休むと煙臺市街の海岸線が遠(yuǎn)くに見ることができる。道ですれ違う女性はここ煙臺出身の女優(yōu)「ファン?ビンビン范冰冰)」でないかと思うと、一人笑ってしまう。広州空港にある巨大なファン?ビンビンの寫真を思い浮かべつつ、日傘を持って小道を歩く女性の姿を日本領(lǐng)事館門前で見失ってしまった。日本を除く各國領(lǐng)事館は、內(nèi)部が開放され展示物を確認(rèn)できるが、日本領(lǐng)事館のみは放置され破れた窓ガラスから內(nèi)部の荒れ放題を見るだけである。領(lǐng)事館の隣に舊職員社宅もあるが、同じく荒れ放題の態(tài)であった。

一番高い場所が、あの倭寇が來襲してきた時に烽火を上げたという煙臺、その橫には白い燈臺がある。その南に、日本の「芝罘(ツーフー)神社」があった。神社は煙臺山山頂に1942年 (昭和17年)10月に創(chuàng)建された。戦後1964年に「抗日英雄記念碑」が建立された。周囲の石碑などに記載はないが、神社の臺座が記念碑臺座としてそのまま活用されているのを確認(rèn)できる。臺座に上がる石段は、周囲の記念碑の新しさにまったく似合わない古い花崗巖で、年代を感じる??谷沼⑿塾浤畋位鶋衔褰切韦摔胜盲皮辍⑸裆缁鶋蚋暮Bして使ったと思われる。記念碑のうしろにつながる四阿(あずまや)の基壇は、1940 年(昭和15年)ごろに日本が建てた戦勝記念碑基壇をそのまま使っているようであった。日本の神社跡を再利用して抗日記念碑が建立されたのだ(寫真2)。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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