拡大
1997年2月20日のトウ小平逝去から10年。當(dāng)時のロイター通信社中國支局による報道は、このような舞臺裏があった。20世紀(jì)の中國政界の最高実力者にまつわるエピソードは、時代が変わっても語り継がれていくことだろう。
(1 / 2 枚)
トウ小平沒後10周年を迎える2007年2月19日。レコードチャイナでは、ロイターが中國の國家通信社である新華社に先駆けて「トウ小平逝去」を報じた、その舞臺裏を紹介する。
【その他の寫真】
1997年2月18日、獨(dú)自のルートから「トウ小平(とうしょうへい)危篤」の情報を得たロイター?中國支局の馬珍(マー?ジェン)記者は、世界各地のロイター記者を北京に集め、取材活動を開始した。記者たちから馬記者の元に次々と屆けられる情報は、すべて「トウ小平、死亡」を裏付けるものだった。
ロイターの北京記者代表である馬氏は、ニュース配信の決定権を持っていた。しかし、「トウ小平逝去」というニュースは、中國にとって重大な意味を持つもので、ロイター上層部からは、必ず、中國の國家通信社である新華社に確認(rèn)をとってから報道するように、との事前の指示があった。ニュース速報を流すべきか待つべきか、馬氏は悩んだ。ロイター上層部に電話で判斷を求めた馬氏に対して出されたのは―、「判斷を任せる」という指示だった。
その時、99%の自信を感じていた馬氏。しかし、間違いは絶対に許されない。馬氏が判斷を下すのを、北京にいるすべてのロイター記者?カメラマンが待った。そして、世界中がその一報を待っている。しかし、新華社のニュース配信機(jī)は未だ沈黙を守っている…。
1997年2月20日午前2時42分ごろ、「トウ小平逝去」という速報が、馬氏の指示によってロイターから発信された。一歩遅れて、新華社による配信も始まった。
※ロイター通信社は、當(dāng)時どこよりも早く「トウ小平逝去」報道を世界中に発信した。その舞臺裏には、このような事情があったのである。
ピックアップ
we`re
RecordChina
この記事のコメントを見る