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「上海市外灘(ワイタン)にある黃浦飯店が日本総領(lǐng)事館跡なのですか」と上海駐在の方々から質(zhì)問(wèn)を受けた。寫真は筆者提供。
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「上海市外灘(ワイタン)にある黃浦飯店が日本総領(lǐng)事館跡なのですか」と上海駐在の方々から質(zhì)問(wèn)を受けた。上海にあった日本租界地(正確には歐米各國(guó)を含めた共同租界地)については、多くの資料があるのでご參考頂きたい。最近、再開(kāi)発という名目で昔の租界地の面影がなくなり、高層建築群の中に古い日本家屋や赤レンガ、そして日本人學(xué)校が徐々に消え行く狀況だ。上海には5萬(wàn)人近い日本人が駐在し、多くの日本人観光客が訪問(wèn)する。外灘の北側(cè)に戦前10萬(wàn)人の日本人が住み、そこに古き良き日本が殘っていた。
【その他の寫真】
上海の歴史は極めて新しく、アヘン戦爭(zhēng)のあと1842年の南京條約によって當(dāng)時(shí)漁村に過(guò)ぎなかった港を歐米列國(guó)に開(kāi)港したことから始まる。もちろん春秋戦國(guó)時(shí)代からの歴史もあるが、この2400萬(wàn)人が住む大都會(huì)が誕生するきっかけは1842年であり、まだ175年の歴史である。
1930年代の上海の地図を見(jiàn)ると、中央部東西に共同租界、その南にフランス租界、北側(cè)の閘北や南側(cè)の城內(nèi)、南市は中國(guó)側(cè)の上海市。「日本租界」というのは存在せず、共同租界の虹口地區(qū)(日本郵船埠頭のあたり)から閘北の新公園にかけて日本人住民の多かった地區(qū)を、勝手にそう呼んだ。地図中央に上海競(jìng)馬場(chǎng)があるが、これは現(xiàn)在人民広場(chǎng)になっている(寫真1)。當(dāng)時(shí)の上海の玄関口は1987年まであった上海北駅で、現(xiàn)在の上海駅の東にあった。今の地下鉄3號(hào)線沿いである。1909年に上海駅として開(kāi)業(yè)、1916年に上海北駅と改名、駅舎は4階建て洋風(fēng)建築であったが、1937年日中戦爭(zhēng)時(shí)に日本軍により空爆され、その後1950年に再建、現(xiàn)在は鉄路博物館となっている?,F(xiàn)在の上海駅は當(dāng)時(shí)の操車場(chǎng)跡地であった。
黃浦江が南から流れ、ちょうど東に向きを変える付近に蘇州河がある。その河を渡る外白渡橋(橋の左岸の洋風(fēng)建築物が英國(guó)領(lǐng)事館跡:寫真2)を過(guò)ぎると交差點(diǎn)がある。正面右にチャップリン他が泊まったアスターホテル(浦江飯店)、正面左が高級(jí)マンションだったブロードウエイマンション(現(xiàn)上海大廈)である。この黃浦路を右に行くとすぐにロシア領(lǐng)事館があり、80年前はソ連領(lǐng)事館である。その橫にドイツ領(lǐng)事館があったが今は広場(chǎng)になっている。その橫が米國(guó)領(lǐng)事館(現(xiàn)海鴎飯店)で、その東橫に赤レンガの日本國(guó)総領(lǐng)事館(紅樓)が現(xiàn)存する(寫真3)?,F(xiàn)在は海軍関係の施設(shè)になって內(nèi)部には入れないが、その北が日本総領(lǐng)事館新館(灰樓)であり、連合國(guó)救済総署として使われ、現(xiàn)在もホテルとして利用(現(xiàn)在外國(guó)人は宿泊不可)できる黃浦飯店(黃浦路106號(hào))となった(寫真4)。正式な日本國(guó)総領(lǐng)事館跡は黃浦飯店の裏手にある赤レンガ建屋の方である。
(寫真5)は、総領(lǐng)事館の東にあった日本郵船埠頭(虹口碼頭)である。奧に見(jiàn)えるのが日本國(guó)総領(lǐng)事館で、左上が絵葉書に殘る當(dāng)時(shí)の姿である。明治初年、外務(wù)省上海出張所が1873年正式に日本領(lǐng)事館と改稱、南蘇州路から虹口に移転して、1891年総領(lǐng)事館に昇格?,F(xiàn)存建築は1911年竣工の二代目で、平野勇造設(shè)計(jì)の3階建煉瓦造。優(yōu)美な曲線を描くマンサード屋根は黃浦江の遊覧船から、今も眼にすることができる。また虹口碼頭は、かのトウ小平がフランスに行く時(shí)に利用した埠頭でもある。この日本郵船埠頭から多くの日本人が上陸し、まっすぐ北に300メートルほど行くと芥川龍之介が泊まった萬(wàn)歳館などの旅館街が待っていた。多くの日本人は現(xiàn)在のハイアットホテルから閔行路を通り、大きな夢(mèng)を持って日本人租界地に向かった。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬(wàn)人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問(wèn)として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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