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霊巖山は蘇州城から西南15キロメートルにある標(biāo)高182メートルの小高い巖山である。寫真は筆者提供。
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霊巖山は蘇州城から西南15キロメートルにある標(biāo)高182メートルの小高い巖山である。古くは春秋時(shí)代、呉王?闔閭(在位紀(jì)元前514年?496年)が霊巖山(姑蘇山)に「姑蘇臺(tái)」を、その子夫差(在位紀(jì)元前495?476年)は美女「西施」のため、この姑蘇臺(tái)に「館娃宮」を設(shè)けた(寫真1左が西施)。現(xiàn)在霊巖山と稱する頂にある「姑蘇臺(tái)山頂花園」は、館娃宮「御花園」の遺跡だとされており、中國に現(xiàn)存する最古の庭園でもある。山麓から正面山頂に見える霊巖塔(多寶仏塔)を目指して徒歩で40分程度である。
【その他の寫真】
観音洞は道に沿って山に登る途中にある。左に続く竹林を見ながら、かなり上り詰めた所に「落紅亭」と碑刻され建物が見える。山頂の霊巖山寺はまっすぐ登るが、左手に常にローソクが燈り線香が絶えないお堂がある。ここは紀(jì)元前494年會(huì)稽山で破れた越王「勾踐」が監(jiān)禁させられた洞窟である。勾踐は囚われの身で、會(huì)稽からここ姑蘇霊巖山に連れて來られた。髪は伸び放題、裸足で馬の世話や掃除などの労働に従事し、夜はこの洞窟で寢るという有様である(寫真2)。
呉王「夫差」といっしょに來た西施は、みすぼらしい越王「勾踐」の有體を見て悲しみ、それを押し殺すかのように笑い顔をつくろったといわれる。いやみすぼらしい越王の姿を見て本當(dāng)に笑ったのだという説もあるが、筆者が思うに「臥薪嘗膽」の嘗膽(膽をなめて會(huì)稽の恥を忘れず)である越王「勾踐」は、その配下の范蠡が計(jì)畫した「打倒呉國」を「くの一、西施」と承知で遂行中であった。西施はみすぼらしい姿の王を見て笑ったのでなく、呉王「夫差」はまんまと策に落ち、ここ霊巖山頂上に呉國の財(cái)を全て注ぎ込み、人心は呉王から離れ、「越王さま、計(jì)畫はうまく行ってますよ」と言うのを、笑みで代弁したのでないかと想像する。この観音洞のことを、西施洞とも言う。
霊巖山頂御花園の奧に玩月池がある。西施はここで2度目の笑顔を作っている。西施は贅沢の粋を盡くした館娃宮で暮らしても決して喜びの日々はなかった。それは打倒呉國の密命を帯びている以外、ふるさと「越」をいつも思い、日夜思い悩む毎日であったからだ。呉王は「あなたの望みを何でもかなえてあげた、できないのは月をここに持ってくることだ、それ以外は何でもしてあげる」、西施は言う「どうしても月が欲しい」。悩んだ呉王夫差は臣下の進(jìn)言で、この山頂に池を掘り麓から汲んで來た水を張って池とした。満月の夜、呉王は西施を連れて御花園にできた池に行き、「さあ、月を手にしよう」と池に映る月を両手で取るように促すと、風(fēng)に揺れる小波に揺れる月が西施の手に入ったのだ?!竿鯓敜从Eください、私の手の中で月(月と越も中國語では同じYue)が遊んでいますよ」と得意気に笑ったと言う。その後、玩月池(月をもてあそぶ池)と呼ぶようになった(寫真3)。
古書によると館娃宮は「銅鈎玉欄、飾以珠玉」といわれるくらい銅のかぎと玉の欄干、數(shù)々の寶石で飾られた御殿であった。唐の詩人「白居易」は蘇州史刺として赴任し、ここ霊巖山で「娃宮ショウ(尸の下に行人偏と葉の草かんむりなし)廊尋已傾、硯池香渓欲平、二三月時(shí)但草緑、幾百年來空月明」と詠っている?!葛^娃宮にあった響ショウ廊を探したが、すでに壊れ硯池の香渓は消えようとしている。2、3月春のころ、草は緑になり幾百年も同じくむなしく月が照らしている」。この詩に出る「響ショウ廊」が、寺門右の霊巖塔と御花園を結(jié)ぶ梓の木で出きた長(zhǎng)い廊下であった。この梓の木の下に大きな甕を一列に置き、女官が木靴で歩くとちょうど木琴の上を歩くのと同じく、美しい音色が奏でられるのである。呉王「夫差」はここまで粋を凝らした宮殿を造営したのだ。
白居易に先立つ百年前に詩人「李白」がここで詠ったのが、「蘇臺(tái)覧古」である。白居易は李白の詩を十分に意識(shí)して作っている。李白は霊巖山を照らす月について「唯今惟有西江月、曽照呉王宮裏人:ただ今は、西江の月があるだけ、かつて照らす呉王宮殿の人(西施)」と月は西施の時(shí)代から今も空しく照らしていますよと詠い、それを意識(shí)した白居易は、李白の幾百年も同じく月は空しく照らしていると、さらに自分の時(shí)代にまで引っ張って來ている。この対句に時(shí)間の長(zhǎng)さと霊巖山の変化のない様子が感じ取れる。そして白居易から1250年後の現(xiàn)在も、月は空しく玩月池を照らしているのだ。
霊巖山寺を出て坂を少し降り、右手に太湖がきれいに見える場(chǎng)所がある。そこに亀の形をした巖がある。ちょうど頭が太湖に飛び込もうとしている。子どもたちが登って馬に跨るような格好をしている。この亀石も同じく西施が上に登り、傘下を見下ろした巖といわれている(寫真4)。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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