<コラム>日本の五円玉は古代中國に繋がる、楽しくも怖い一面

工藤 和直    2018年2月1日(木) 21時50分

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中國史において、春秋戦國時代は紀(jì)元前770年に周が都を洛邑(洛陽の西)へ移してから紀(jì)元前221年に秦が中國を統(tǒng)一するまでの時代である。寫真は筆者提供。

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中國史において、春秋戦國時代は紀(jì)元前770年に周が都を洛邑(洛陽の西)へ移してから紀(jì)元前221年に秦が中國を統(tǒng)一するまでの時代である。この時代、周が東周と稱されることから、東周時代とも稱される。紀(jì)元前403年に晉が韓?魏?趙の3國に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦國時代と分けることが一般的である。春秋時代の半ばごろまで邑(村落)が中國內(nèi)に200以上點在し、邑と邑の間の土地は必ずしもその國の領(lǐng)域に屬していなかった。また周(及び周の諸侯)に服屬しない異民族が多數(shù)存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした點と線の支配から面への支配となった。

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政治の面では法治國家の胎動であり、孔子?孟子?老子?孫子などの諸子百家の出現(xiàn)で、人間としても基本思想が出來上がった。要は、現(xiàn)代21世紀(jì)の人類にとって科學(xué)文明を除く大半が、この春秋戦國時代に完成したのだ。筆者はその中で貨幣経済の変遷を多くの文獻(xiàn)から調(diào)査したが、辺境の西戌と言われた「秦」が、「中華」と言う大理念を現(xiàn)在まで伝える國家となったことに驚きを感じる。日本の穴あき「五円玉」硬貨ですら、秦に繋がると思うと実に楽しい反面、怖い一面も見えてくる。

中國で最古の貨幣は南海産の子安貝であった。殷代の墓中から多數(shù)発見されている。青銅器時代になると、子安貝と同形狀の銅貝貨が作られるようになった。その後、農(nóng)耕具に似た青銅貨幣が使われ始めた。どちらかと言うと鉄板焼やお好み焼で使う「ヘラ」に似た形狀だ。ヘラの先に穴があり、そこに木製の柄を入れるが、そこを「●(qiong、●=恐の心が金」と言う。それが「銭:qiang」になったといわれている。

円銭には中央部が円孔の「円孔円銭」と中央部が四角孔の「方孔円銭」の2種類がある。三晉(紀(jì)元前403年に晉が魏?韓?趙に分裂)の一つ魏で作られたのを起源にする。中央部の円孔は當(dāng)初は小さいが、時代とともに大きくなっている?!阜娇變忆E」は戦國晩期、秦を起源とする。秦が中國を統(tǒng)一する過程で、東部の斉や東北部の燕においても普及した。貨幣に書いてある漢字は場所を示したものから重量を記載するように変化していく。円銭の起源は寶石や裝飾品である。玉以外に石や貝殻もあり、中央に穴をあけた物で殷の時代は富の象徴(ネックレスなど)であった。その後青銅金屬で鋳造され、円穴の利便性から小型化が図られた。

(寫真1)左は代表的な魏の「共」字円銭である。漢書地理誌によると、載河內(nèi)郡に「共県」現(xiàn)在の河南輝県の地名、直徑4.4センチで15グラムにもなる大型貨幣である。(寫真1)中央「黍垣一釿」、黍垣とは漢書地理誌によると、上郡蜀県に「漆垣」という地名がある。現(xiàn)在の陝西省銅川の地域名で、直徑3.7センチ、重さは12グラムである。時代的には紀(jì)元前312年頃にあたる。(寫真1)右が「襄陰」、襄山の北、現(xiàn)在の山西省ゼイ城北(ゼイ=草かんむりに內(nèi))になり、直徑3.5センチ、重さ11グラムの円穴円銭である。

秦は西の辺境にあったがため、中原の貨幣経済からかなり遅れていた。(寫真2)左から「重一両?十四?一珠」「重一両?十二?一珠」であるが、十四?一珠は楚の銅貝10個と十二?一珠は魏の二釿布と交換を可能とし、隣國との互換性があるように重量を記載した貨幣であった。他國の貨幣は発行の地名を刻印するが、秦は重量単位を刻印して他國との同等であることを証明したのだ。いずれも直徑3.8?4センチ、重さ12?15グラムになる円孔円銭の大銭である。

秦は暦の統(tǒng)一?文字の統(tǒng)一?度量衡の統(tǒng)一?貨幣の統(tǒng)一などを行い、中央集権政権を確立、その後、2000年間清王朝まで及ぶ政治體制の基礎(chǔ)を築いた。方孔円銭「半両」による貨幣の統(tǒng)一は、その後東南アジアを含むアジア各國の貨幣が同じく方孔円銭になったという點で非常に畫期的な出來事だ。古代中華では宇宙は円であり、大地は四方であることからこの形狀が使われたという。

秦は他國に先駆けて円銭貨幣を発行、「両銖制」を採用した。1斤=16両(249.6グラム)、1両=24銖=15.6グラムとなり、半両は7.8グラムの重さとなる度量制であった。これは魏の布銭や楚の銅貝との互換性(交換性)から貨幣に重量を記載した。(寫真3)左は秦が統(tǒng)一貨幣として使用した「半両」である。半両は、始皇帝が中國統(tǒng)一後も貨幣制度の中心となった。始めは重量が重要であった秤量貨幣であるが、秦が強國になるにつれ、重さより一個あたりの価値が定まり數(shù)量で管理する個數(shù)原理性へと変わって行く。(寫真3)中央が秦の近隣で使われた「両シ(シ=緇の糸なし)」である。シとは重量を表し、12銖=両シとなり、秦の半両と同じであるということである。(寫真3)右が文信という、同じく地方で発行された貨幣である。文信とは秦の宰相「文信候呂不韋」でこの貨幣は文信候の封地で作られたものだ。直系2.3センチ、重量2?2.5グラムと小さい(寫真の貨幣はいずれも著者収集品)。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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