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ヤマトホテルは、かつて南満州鉄道株式會社が経営していた高級ホテルブランドである。寫真は筆者提供。
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ヤマトホテルは、かつて南満州鉄道株式會社が経営していた高級ホテルブランドである。1907年から1945年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網(wǎng)を展開していた。日露戦爭後、満鉄沿線に西洋人が快適に滯在できるホテルを確保することが必須であった。初代総裁?後藤新平が掲げる「文裝的武備」の思想の下で多角経営を進(jìn)めた満鉄は、ホテル網(wǎng)の展開も率先して進(jìn)めていった。
【その他の寫真】
こうしてできたヤマトホテルは西洋人旅客を招致するとともに、満鉄の迎賓館としても機(jī)能する西洋式高級ホテルとなった。しかし、満鉄はホテルを鉄道事業(yè)と満州開発を支える手段と考えて採算を度外視したため、ホテル事業(yè)単體では利益が出ない體質(zhì)だったといわれている。
満鉄は1945年(昭和20年)の敗戦に伴い解體されたが、一部の舊ヤマトホテルは現(xiàn)在もホテルとして営業(yè)を続けている。大連ヤマトホテル(大連賓館)、長春ヤマトホテル(春誼賓館)、奉天ヤマトホテル(遼寧賓館)、ハルビンヤマトホテル(龍門大廈貴賓樓)などである。その他名前を上げると、旅順ヤマトホテル、大連星ケ浦ヤマトホテル、撫順ヤマトホテル、チチハルヤマトホテル、アルシャンヤマトホテル(モンゴル自治區(qū))、牡丹江ヤマトホテル、孫呉ヤマトホテル (黒龍江省黒河市)、東安ヤマトホテルなどがあった。
満鉄沿線でないのが、天津ヤマトホテルと青島大和ホテルである。山東省青島も満鉄の路線外であるが、不思議なことに「大和ホテル」がある。青島灣の桟橋方面から中山路を歩いて行くと、左側(cè)に百盛というデパートがある。その先の曲阜路の角を左に曲がると、最初の四つ角右奧に舊大和ホテル跡(曲阜路13號)がある。當(dāng)時の(寫真1)を見ると右から「大和ホテル」と読める。
日本軍が1914年に青島を占領(lǐng)したのに伴い、満鉄は1915年?1921年まで社員を山東鉄道に派遣して経営に當(dāng)たった関係で、臨時的に「大和ホテル」の名を使ったのかもしれない。當(dāng)時は麻布通りと言われ、青島駅から北東の方向になる?,F(xiàn)在は1階が店舗で2階?3階がアパートである。寫真のように、ほぼ當(dāng)時のままに使われており、入口玄関に繋がる石畳は百年の歴史を感じ、石の階段の踴り場には當(dāng)時のタイルがそのまま殘っている。玄関から入ると木の階段が2階に通じている。これも當(dāng)時のままであろう。
中國にあった「ヤマトホテル」についてまとめてみる(別表參照)。大連ヤマトホテルは旗艦店である。大連は歐亜連絡(luò)鉄道と上海航路との接続點(diǎn)であり、日本から満州への玄関口であり、そして満鉄が本社を置いた最重要拠點(diǎn)である。それ故、大連ヤマトホテルには歐米の一流ホテルに伍する格式が求められた。満鉄の設(shè)立から間もない1907年(明治40年)8月1日、舊ダーリニーホテルを改裝して開業(yè)。大連一の格式ホテルだったが、客室數(shù)が13室と小規(guī)模で宿泊客の増加に対応できず、1909年(明治42年)5月7日には舊満鉄本社跡(舊ダーリニー市庁舎)を改修して客室36室を確保、さらに1911年(明治44年)には社宅用建物2棟を改裝し客室8室を増設(shè)、合計58室とした。1914年(大正3年)3月に大連中心部の大広場(現(xiàn)中山広場)前に新館が竣工、8月1日に移転開業(yè)した?,F(xiàn)在は「大連賓館」として営業(yè)している。
奉天ヤマトホテルは奉天駅(1910年7月竣工)に併設(shè)されたステーションホテルとして、駅の開業(yè)日と同じ1910年(明治43年)10月1日に客室數(shù)12室で開業(yè)した。1924年(大正13年)にホテル新築設(shè)計の指名コンペを?qū)g施、小野木?橫井共同建築事務(wù)所が新築設(shè)計を受託した。1929年(昭和4年)5月10日、奉天大広場(現(xiàn)中山広場)前に完成した客室數(shù)71室の新館が営業(yè)を開始した。內(nèi)外裝はアール?デコ調(diào)のデザインが施され、外壁は白色のタイル貼り仕上げとされた??褪窑先以∈腋钉?、館內(nèi)にはバー?ビリヤード室?理髪室など長期滯在者向けの設(shè)備が設(shè)けられた。
當(dāng)時は最新かつ最高格式のホテルとして知られ、戦後も中華人民共和國の國家指導(dǎo)者である毛沢東やトウ小平がここに宿泊した?,F(xiàn)在も3つ星ホテル「遼寧賓館」として営業(yè)している(寫真2)??褪遥?7室)は現(xiàn)代的に改裝されているが、エントランスやレストランは往時のままの裝飾が維持されている。エレベーターホールには上記を含め著名人の宿泊を示すプレートが標(biāo)示されている。また、上階に通じる螺旋階段は必見の価値がある(寫真3)。
別表に舊満州にあった代表的なヤマトホテルの當(dāng)時と現(xiàn)在の寫真を示す。長春ヤマトホテルは1909年(明治42年)に帝政ロシア(東清鉄道)や清國高官との交渉の場に充てるべく、南満州鉄道と東清鉄道との接続點(diǎn)だった長春駅前に新築されたホテル、1910年(明治43年)2月1日に本格営業(yè)を開始した。建物の內(nèi)外裝はアール?ヌーヴォー様式。満州國の成立後は新京ヤマトホテルと改稱し、現(xiàn)在は「春誼賓館」として営業(yè)中。食堂などの內(nèi)裝にアール?ヌーヴォー様式の裝飾が殘されていたが、1987年の改裝で大部分が失われた。
旅順ヤマトホテルは1908年に開業(yè)、開業(yè)當(dāng)時は15部屋の小規(guī)模ホテルだった。この建物は元々ロシアと関係が深かった豪商紀(jì)鳳臺の私邸を改良したものだと伝えられる。1927(昭和2年)年11月、川島芳子の結(jié)婚式があった。1928(昭和3年)年5月與謝野晶子?鉄幹夫妻が2泊、晶子は203高地等を訪れ11首殘す。1931(昭和6年)年愛新覚羅溥儀が105日滯在、1932(昭和7)年2月24日には、1階レストランで板垣征四郎と満州國建國を祝って乾杯したと記録される。
ハルビンヤマトホテルは、1903年(明治36年)ハルビン駅前に東清鉄道ホテルとして建てられた。日露戦爭が勃発するとロシア軍が野戦病院や軍司令部として使用、戦後はロシア軍將校クラブ(1907年?)、中東鉄路理事會館(1921年?)として使用された。1935年より満鉄の所有となり、1937年(昭和12年)2月1日に客室數(shù)56室(浴室付き45室)のホテルとなった。第二次大戦後はハルビン軍事工程學(xué)院、鉄路醫(yī)院を経て1968年よりハルビン鉄路局招待所として使用されたが、1996年にハルビン鉄路局が経営するホテル龍門大廈に統(tǒng)合?改修され、1997年より龍門大廈貴賓樓として営業(yè)、ランクは3つ星である。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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