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山東省青島市青島灣を臨む小魚山から西に下ると中國海洋大學の正門に至る。正門から見える建物が舊制青島中學であった。寫真は筆者提供。
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山東省青島市青島灣を臨む小魚山から西に下ると中國海洋大學の正門に至る(寫真1)。正門から見える建物が舊制青島中學であった(寫真2)。門柱は昔のままである。青島守備隊大谷中將の命令で、青島日本中學校が1917年(大正6年)、旭ケ丘(ドイツ?イルティス兵営跡地)に開設された。イルティス兵営は1899年太平山南麓(今の中山公園)にあった二階建ての建物であった。開設當初の制服は、冬服は紺色詰襟、夏服は鼠霜降詰襟であった。
【その他の寫真】
1921年(大正10年)、舊ドイツ自動車廠跡地(ビスマルク兵営)に建設中であった新校舎が落成し、桜ケ丘校舎と呼ばれ全校生徒が新校舎に移動した。新校舎の敷地は1萬5892坪(5萬2400平米)、校舎の延坪數は1936坪(6400平米)で、當時の日本においてはまれに見る堂々とした外観と設備を有していた。校舎內に寄宿舎があり、膠済線沿線の生徒ばかりか全中國各地から、ここに寄宿勉學した。グラウンドに降りる階段の両側にソメイヨシノが現在も多く植えられて、春になると名の如く桜花爛漫の世界になる。
建設後百年近く経つが、大きさと言いその正面玄関背後にある広い中庭と別棟の校舎建屋、北西に広がる運動場(昔の教練場)とそこへ下りる階段は當時の花崗巖であり、遠く真正面にドイツ総監(jiān)官?。ㄈ毡拒娝玖罟氽。─姢à?。これが中學校とは思われない。內地の帝國大學がこれに匹敵する。舊制青島中學は名門であり、內地の有名官公大學?高等學校?私立大學や専門學校に多くの卒業(yè)生を輩出した。在籍記録(卒業(yè)は他中學)の中に、石丸寛(九州交響楽団?東京交響楽団指揮者)や中村八大(上を向いて歩こう?こんにちは赤ちゃん等の作曲家)などの異彩児も居る。中村の父親(中村和之)は青島第一尋常小學校(武定路)の校長でもあった。
校舎內外を(寫真3)に示す。中央玄関の入口に花崗巖の石段があるが、これも昔のままである。セキュリティー付き自動ドアで校舎內部に入る事が困難だったが、學院の學生とともに入り、正面階段を登り二階の踴り場に行った。正面は當時、校長室であったのかもしれない。今は、海洋大學食品科學工程學院書記室になっている。當時、左右の廊下に続く各部屋は教室であったのであろう。二階に上がる階段踴り場は、その奧が講堂につながっている。
當時の青島中學の(寫真4)を見ると、グラウンドから見上げる風景は今も変わらない。日本へ引揚げて70年以上になるが、卒業(yè)生は定期的に集っているようだ。青島中學「鳳雛會」と稱して、OB會を定期開催している。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學大學院工學研究科修了。韓國で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導する傍ら、現在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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