<コラム>清の高官も驚いた博學(xué)政治家、日本の副島種臣が訪ねた蘇州「寒山寺」

工藤 和直    2017年9月3日(日) 14時20分

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副島 種臣(そえじま たねおみ、1828年?1905年)は、江戸幕末期の志士?佐賀藩士、明治時代の日本の官僚?政治家。彼は1876年に寒山寺を訪問している。寫真は筆者提供。

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副島種臣(そえじま たねおみ、文政11年<1828年>?明治38年<1905年>)は、江戸幕末期の志士?佐賀藩士、明治時代の日本の官僚?政治家。初名は竜種(たつたね)。通稱は次郎。號に蒼海(そうかい)、一々學(xué)人(いちいちがくじん)などがある。書家としても優(yōu)れた作品を殘した。

その他の寫真

明治4年(1871年)に外務(wù)卿となり、翌年マリア?ルス號事件において活躍。マリア?ルス號事件とは、橫浜港停泊中ペルー船籍のマリア?ルス號內(nèi)清國人「苦力」を奴隷であるとして、日本政府が解放した事件。正義?人道の人と國際的に支持された。明治6年(1873年)2月、特命全権公使兼外務(wù)大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好條規(guī)批準(zhǔn)書の交換?同治帝成婚の賀を述べた國書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博學(xué)ぶりを評価されている。同年10月、征韓論爭に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛國公黨に參加。同年には民撰議院設(shè)立建白書を提出したものの、自由民権運(yùn)動には參加しなかった。西南戦爭中は、中國大陸中南部を旅行滯在している。

1860年太平天國の亂によって壊滅されてしまった寒山寺を1876年(明治9年)時の外務(wù)卿副島種臣が訪問。その時の漢詩が下である。清の高官も驚く才能であった。唐の詩人「張継」の原文がその下であるが、実に巧みなるパロディー風(fēng)表現(xiàn)で當(dāng)時廃墟となって閑散とした寒山寺の情景が極めてよく伝わる漢詩である。副島はパロディーの中に唐時代の良き寒山寺を想像したに違いない。寺はその後、1904年に再建されることになった(寫真1)?,F(xiàn)在の寒山寺は、文化革命でも再度破壊されたが、その後見事に昔日の姿を取り戻した(寫真2)。

【副島種臣】

月落烏啼霜満天(月落ち烏啼きて霜天に満つ)

江楓夜泊転凄然(江楓夜泊うたた凄(せい)然)

兵戈破卻寒山寺(兵戈(へいか)破卻す寒山寺)

複無鐘聲到客船(また鐘聲の客船に到る無し)

【張継】

月落烏啼霜満天(月落ち烏啼きて霜天に満つ)

江楓漁火対愁眠(江楓漁火愁眠に対す)

姑蘇城外寒山寺(姑蘇城外の寒山寺)

夜半鐘聲到客船(夜半の鐘聲客船に到る)

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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