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林則徐(1785年?1850年)は、中國清代の官僚、政治家。常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に國家の事を考え続けた姿は後世の人間から深く尊敬されている。寫真は筆者提供。
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林則徐(寫真1)はアヘン禁輸の欽差大臣となって英國とのアヘン戦爭に負(fù)け、左遷させられた清朝時代の官僚であったが、1832年から江蘇巡憮(長官)として江蘇省蘇州に赴任した経歴がある。彼が執(zhí)務(wù)した書院巷北にある江蘇巡憮院署の門柱に「海納百川有容乃大(海は百川をおさめ容の大なる有り)、壁立千丈無欲則剛(壁は千丈に立ち無欲にしてすなわち剛し)」の書畫がある。今では、習(xí)近平主席を含め多くの政治家が唱える政治模範(fàn)になっている言葉である。かつてオバマ大統(tǒng)領(lǐng)が中國訪問された時、習(xí)近平談話の中に、この「海納百川」があった。
【その他の寫真】
林則徐(1785年?1850年)は、中國清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務(wù)めている。字は少穆。諡(し)は文忠。イギリスによるアヘン密輸の取り締まりを強行、これに対する制裁としてイギリスはアヘン戦爭を引き起こした。江蘇巡撫のあと、1837年(道光17年)から湖広総督(現(xiàn)在の湖北省と湖南省を合わせた地方長官)になる。この時に管內(nèi)でのアヘン根絶に実績を上げ、黃爵滋の「阿片厳禁論」に賛同し上書、その実績と議論の精密さを道光帝は評価、1838年に林則徐をアヘン禁輸の欽差大臣に任命した。
1839年(道光19年)、広東に到著した林則徐は、イギリス商人が持っているアヘンを全て沒収、処分した。これに怒ったイギリス商人たちは林則徐に抗議し、最終的に1840年アヘン戦爭を引き起こすことになった。現(xiàn)地のイギリス商人を支援するために派遣されたイギリス東洋艦隊は、広東ではなく北京に近い天津に現(xiàn)れた。間近に艦隊を迎えた清の上層部は狼狽、慌てて林則徐を解任、イギリスの意を迎えることに必死になった。林則徐の後任となった[王奇]善は、ひたすらイギリスに低姿勢で臨んだ結(jié)果、清が大幅に譲歩した南京條約を1842年に結(jié)ぶことになった。
欽差大臣を解任された林則徐は新疆に左遷された。しかし、彼はここで農(nóng)地改革を行い、善政を布いた事で住民から慕われた。常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に國家の事を考え続けた姿は後世の人間から深く尊敬されている。林則徐にとって、この地で南下しようとするロシア帝國の脅威を?qū)g見できた事は大きな収穫であり、進(jìn)士の後輩に対し「將來、清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」と言い殘した。1849年(道光29年)に隠棲したが、太平天國の亂が勃発すると召し出され、太平天國に対する欽差大臣に任命された。そして任地に赴く道中、普寧で病死した。
1832年から1837年、江蘇巡憮(江蘇省長官)として赴任した場所が、寫真2の巡憮院署である。清代には明の制度を踏襲して巡撫は省の長官とされ、総督とほぼ同格として皇帝に直屬した。上奏?屬官の任免?軍隊指揮?地方財政の監(jiān)督?裁判?渉外などを権有した。蘇州市人民路は蘇州城內(nèi)を南北に貫く大道である。ホウ門(東門、ホウ=草かんむりに封)から東西に走る十全街が人民路にぶつかる四つ角から書院巷に入るが、その北にあるのが「巡憮署」の建屋になる。ちょうど蘇州中學(xué)の北の対面になり、現(xiàn)在は衛(wèi)生職業(yè)技術(shù)學(xué)院の玄関門になる。
林則徐は座右の銘としてこの漢詩を愛したという(寫真3の書畫は本人自筆)。海は百(無數(shù))の川を受け入れるからこそ、あれだけの大きさを持っている。山は千丈(無限)の高さを持ちながら、無欲であるからこそ強さを持っている?!缸晕窑蛑鲝垽护?、他者を受け入れられる者の方が、結(jié)局は大きくて強いのだ」、中國はアメリカより上ですよと、習(xí)近平主席はオバマ大統(tǒng)領(lǐng)に言いたかったのだろう。
シャープを買収した臺灣の鴻海精密工業(yè)(鴻海精密工業(yè)有限公司)の企業(yè)名「鴻?!工?由來も「鴻飛千里、海納百川(鴻は千里を飛び、海はすべての川を納める)」にある。企業(yè)が大きく羽ばたくよう期待した縁起が良いネーミングである。 鴻海はプラスチック製の「白黒テレビの選局チューナー」の製造から始まった。
■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會)會長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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