<コラム>芥川龍之介を?qū)い?、上海の日本旅館に行く

工藤 和直    2017年7月12日(水) 0時(shí)10分

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最近、上海虹口にあった租界地は、再開発という名目で昔の面影がなくなり、高層建築群の中に日本家屋や赤レンガ、そして當(dāng)時(shí)の學(xué)校も徐々に消え行く狀況だ。寫真は筆者提供。

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最近、上海虹口にあった租界地(正確には歐米各國を含めた共同租界地)は、再開発という名目で昔の面影がなくなり、高層建築群の中に日本家屋や赤レンガ、そして當(dāng)時(shí)の學(xué)校も徐々に消え行く狀況だ。上海には5萬人近い日本人が長期駐留し、減ったとはいえ日本人観光客が多く訪問する。外灘の北に戦前10萬人の日本人が居た。上海の歴史は極めて新しく、アヘン戦爭のあと1842年の南京條約によって當(dāng)時(shí)漁村に過ぎなかった上海港を歐米列國に開港したことから始まる。もちろん春秋戦國時(shí)代からの歴史もあるが、この2400萬人が住む大都會(huì)が誕生するきっかけは1842年であり、まだ175年の歴史しかない。

その他の寫真

黃浦江が南から流れ、ちょうど東に向きを変える付近に蘇州河がある。その河を渡る外白渡橋(橋の左岸の洋風(fēng)建築物が英國領(lǐng)事館跡)を過ぎると交差點(diǎn)がある。正面右にチャップリン他が泊まったアスターホテル(浦江飯店)、正面左が高級(jí)マンションだったブロードウエイマンション(現(xiàn)上海大廈)である。この黃浦路を右に行くとすぐにロシア領(lǐng)事館があり、80年前はソ連領(lǐng)事館である。その橫にドイツ領(lǐng)事館があったが今は広場(chǎng)になっている。その橫が米國領(lǐng)事館(現(xiàn)海鴎飯店)で、その東橫に赤レンガの日本國領(lǐng)事館(紅樓)が現(xiàn)存する?,F(xiàn)在は海軍関係の施設(shè)になって內(nèi)部には入れないが、その北が日本総領(lǐng)事館新館(灰樓)であり、連合國救済総署として使われ、現(xiàn)在もホテルとして利用(現(xiàn)在外國人は宿泊不可)できる黃浦飯店(寫真1)となっている。

寫真2は、総領(lǐng)事館の東にあった日本郵船埠頭(虹口碼頭)である。奧に見えるのが日本國総領(lǐng)事館で、左上が絵葉書に殘る當(dāng)時(shí)の姿である。明治初年、外務(wù)省上海出張所が1873年正式に日本領(lǐng)事館と改稱、南蘇州路から虹口に移転して、1891年総領(lǐng)事館に昇格。現(xiàn)存建築は1911年竣工の2代目で、平野勇造設(shè)計(jì)の3階建煉瓦造。優(yōu)美な曲線を描くマンサード屋根は黃浦江の遊覧船から、今も眼にすることができる。また、虹口碼頭は、かのトウ小平がフランスに行く時(shí)に利用した埠頭でもある。この虹口碼頭から多くの日本人が上陸し、まっすぐ北に行くと萬歳館などの旅館街があった。

萬歳館(閔行路181號(hào))は1904年創(chuàng)業(yè)の旅館、芥川龍之介のほか佐藤春夫も泊まった當(dāng)時(shí)著名な日本旅館であった。付近の日本旅館としては、豊陽館、東和洋行、常磐館などが一流どころだ。寫真3は現(xiàn)在の萬歳館(舊館)であり、閔行路対面にはあるのが新館であるが、周辺の再開発が進(jìn)み、次に來るときは新しいビルになっているかもしれない。この舊館3階に芥川龍之介が逗留したのだ。芥川に會(huì)いに3階に上ったが、昔のホテルの各部屋は分譲アパートになっており、彼がどこに居たか分からない。ただ、暗い通路や階段に細(xì)かい細(xì)工を施した手すりや欄間などがあり、かつて芥川が居た痕跡は見られた。

芥川は大正8年(西暦1919年)に大阪毎日新聞に入社、翌々大正10年に海外特派員として中國への旅に出た。3月30日に上海に入港するが、乾性肋膜炎で3週間入院。病み上がりの取材のためか、彼の中國評(píng)価は極めて低い?!干虾¥虾韦闰Xがしく、人間もソワソワして実に忙しい。良かったのは北京王府と蘇州の景であった」と、著書「江南遊記」の中に書いている。

四川北路を南進(jìn)すると、上海第一人民病院が東側(cè)にあるが、ここは1924年に日本人が開業(yè)した総合病院「福民病院」で、魯迅が通訳をしていたという。その福民病院を過ぎて商店街の間に正門があるのが、高等尋常小學(xué)校「北部小學(xué)?!工扦ⅳ耄ㄋ拇ū甭?838號(hào)、現(xiàn)?虹口區(qū)教育學(xué)院実験校、1917年創(chuàng)立、寫真4)。日本國內(nèi)ではまだ木造校舎が一般的であった時(shí)代、ドイツ人設(shè)計(jì)による鉄筋4階建て校舎を建てた。守衛(wèi)に許可を得て校庭に入れてもらい、100年前に建てられた建物を拝見した。海外にあった日本人學(xué)校は極めて最新なコンクリート造りが多かった。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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