<コラム>吉田茂が駐在した、天津日本人租界地跡を訪ねて

工藤 和直    2017年6月28日(水) 21時(shí)40分

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中國(guó)國(guó)內(nèi)において西洋列強(qiáng)(日本も含む)が設(shè)定した利権のなかに租界地がある。租界とは主権は中國(guó)に屬しながら、中國(guó)側(cè)に行政権がない(治外法権)極めて限定された地域を長(zhǎng)期的に外國(guó)人に貸與された地域のことである。寫真は筆者提供。

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中國(guó)國(guó)內(nèi)において西洋列強(qiáng)(日本も含む)が設(shè)定した利権のなかに租界地がある。租界とは主権は中國(guó)に屬しながら、中國(guó)側(cè)に行政権がない(治外法権)極めて限定された地域を長(zhǎng)期的に外國(guó)人に貸與された地域のことである。アヘン戦爭(zhēng)後の南京條約1842年により西洋列強(qiáng)に、広州?アモイ(廈門)?福州?寧波?上海5港を開港させ、最初にイギリス、次にフランス、次にアメリカが上海に租界地を置いた。その後天津條約1858年で、漢口?九江?南京など10港を開港、北京條約1860年に天津を開港させた。西洋列強(qiáng)は戦勝國(guó)の立場(chǎng)で特権を中國(guó)に強(qiáng)いる傾向が強(qiáng)く、あわせて中國(guó)內(nèi)の內(nèi)亂をもうまく利用し、租界地の拡大を図った。

その他の寫真

日本は日清戦爭(zhēng)に勝利し、1895年下関條約によって重慶?蘇州?杭州?沙市の開港と専管租界開設(shè)の準(zhǔn)備を開始、さらに1896年「日清通商航海條約?で上海?天津?漢口?蘇州?杭州?アモイでの租界開設(shè)を認(rèn)めさせた。しかし、候補(bǔ)地の交渉では清國(guó)政府の外交戦術(shù)がうまく、條件の悪い墓場(chǎng)とか荒野を割り當(dāng)てられるケースが多く、當(dāng)時(shí)経済力の乏しい日本は市中心から離れ交通の不便な地域での発展が見込めず、途中斷念するケースが多々であった。

沙市の場(chǎng)合は中國(guó)住民による抗日暴動(dòng)事件や日本國(guó)領(lǐng)事館焼き討ちなどあり、福州?アモイも同じく租界設(shè)置には至らなかった。9つの租界地の中で、一定の発展を見たのは上海(共同租界)?天津?漢口ぐらいで、重慶?杭州?蘇州は最大でも100名程度、福州?アモイ?沙市は設(shè)立もなかった。當(dāng)時(shí)の租界の歴史を大きくまとめると、1896?1905年の開設(shè)期、1937年までの成長(zhǎng)期、そして敗戦までの1945年の終焉期と3段階に分けられる。

天津には1898年から1943年にかけて、日本人租界地が置かれ、最大規(guī)模であった(上海は歐米との共同租界地)。明治維新後、天津は中國(guó)政府(清國(guó))との外交の入口であった。1871年の日清修交條規(guī)締結(jié)以後、天津が日中間外交交渉の窓口となり、1874年の臺(tái)灣出兵に関しても、外務(wù)卿副島種臣や全権便利大臣大久保利通が天津にて交渉、翌年の朝鮮問題も全権大使伊藤博文が天津に赴任している。1871年の條規(guī)で領(lǐng)事館を置く権利を得て、1873年に上海に最初の領(lǐng)事を設(shè)置、1875年に池田寛治が5年間副領(lǐng)事として天津に派遣、1883年には後に平民首相となる「原敬」が領(lǐng)事として赴任した。1896年7月、北京で日清通商航海條約が締結(jié)され、1898年8月には天津において約100萬平米の租界地を得た。ただし、獲得した土地の南部は大半が沼沢地であり、まずは干拓(埋め立て)が最初の任務(wù)であった(地図1)。

天津租界地は、まずは海河に近い土地から建設(shè)が始まった。日本政府はのちに栄街(新華路)となる北側(cè)の旭街(和平路)までを第1期、栄街から春日街(河南路)を第2期とした。日本領(lǐng)事館がある花園街(山東路)から芙蓉街(河北路)付近が政治経済の中心地となった。1903年には、フランスから割譲された予備地を入れて最終的には124萬平米となった。西北は福島街(多倫路)、南は住吉街(南京路)、東は秋山街(錦州道)、北は海河にかけての領(lǐng)域である。

1902年1月、日本政府は天津領(lǐng)事館を総領(lǐng)事館に昇格、第一代総領(lǐng)事には、伊集院彥吉が就任、1909年に栄街に移転。1915年には、宮島街(鞍山道)、花園街(山東路)角に、新領(lǐng)事館を建設(shè)した(寫真1)。1922年には、吉田茂(戦後の総理大臣)が総領(lǐng)事として赴任、3年後には奉天総領(lǐng)事となっている。吉田茂は外務(wù)省記録から見ると、多くの報(bào)告書を殘し、中國(guó)専門家としての一輪を見ることができる。その後、イタリア大使?イギリス大使を歴任、1939年に退官してから、戦後は自由黨総裁として組閣、5次に渡り首相を務(wù)めた。

1894年日清戦爭(zhēng)開始時(shí)には天津在留邦人は48名に過ぎなかったが、義和団事件、第一次世界大戦、日中戦爭(zhēng)と數(shù)度の戦亂の度に邦人は増加、1931年に1萬人、その後毎年1萬人増加し、1941年には7萬人近くになった。日本租界は9カ國(guó)の中で一番西北部に位置し、東はフランス租界、北は天津県城(舊城內(nèi))、北西部に中國(guó)人街三不管(南市スラム街)、南西部に日本軍支那部隊(duì)の駐屯する「??谒隆工?、現(xiàn)在地下鉄一號(hào)線「鞍山道」駅から北西に走る「鞍山道」の左右に格子狀に街路が出來た。

鞍山道(宮島街)と並行に斜めに走るのが、萬全道(伏見街)?四平東道(浪速街)?哈蜜道(松島街)?瀋陽道(蓬萊街)?錦州道(秋山街)である。メインストリートは鞍山道(宮島街)になる。駅を降りまず見えるのが武徳殿(寫真2)であり、柔剣道などで日本人が心身を鍛えていた。鞍山道を北西に向かうと、甘粛路(淡路街)で舊淡路小學(xué)校建屋(寫真3)の遭遇、その周辺には日系企業(yè)の社宅や一軒屋など見ることができる。

北上すると日本総領(lǐng)事館(1949年解體)や警察署があったのが、河北路(芙蓉街)と山東路(花園街)に挾まれた地域である。日本総領(lǐng)事館(現(xiàn)科技金融大廈)の北、新華路(栄街)との間に、大和公園(現(xiàn)八一禮堂:寫真4)と天津神社(現(xiàn)天津市豫商會(huì)館)があった。天津神社社務(wù)所は現(xiàn)存する(寫真5)。その北に路面電車が通っていた和平路(旭街)があった。この路面電車で北の舊天津城內(nèi)や東の仏國(guó)租界?英國(guó)租界に移動(dòng)ができた?,F(xiàn)在でも金融関係の建物が多いのが英國(guó)租界であり、ファッション店が多いのは仏國(guó)租界である。日租界は一般中國(guó)人と日本人が住む寂しい環(huán)境であったようだ。旭街の北に、曙街(嫩江路)があった。舊橫浜正金銀行(現(xiàn)中國(guó)銀行:寫真6)は英國(guó)租界にあった。天津租界地は天津政府の保護(hù)により、昔日の日本人住居跡などその痕跡を確認(rèn)できるのが特徴だ。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大學(xué)大學(xué)院工學(xué)研究科修了。韓國(guó)で電子技術(shù)を教えていたことが認(rèn)められ、2001年2月、韓國(guó)電子産業(yè)振興會(huì)より電子産業(yè)大賞受賞。2004年1月より中國(guó)江蘇省蘇州市で蘇州住電裝有限公司董事総経理として新會(huì)社を立上げ、2008年からは住友電裝株式會(huì)社執(zhí)行役員兼務(wù)。2013年には蘇州日商倶楽部(商工會(huì))會(huì)長(zhǎng)として、蘇州市ある日系2500社、約1萬人の邦人と共に、日中友好にも貢獻(xiàn)してきた。2015年からは最高顧問として中國(guó)関係會(huì)社を指導(dǎo)する傍ら、現(xiàn)在も中國(guó)関係會(huì)社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中國(guó)や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進(jìn)め方」など多方面で講演會(huì)を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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