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30日、中國國営新華社通信傘下の「環(huán)球雑誌」の副編集長、劉洪(リウ?ホン)氏が開設したウィーチャット(微信)公式アカウント「牛弾琴」は、韓國の樸槿恵大統(tǒng)領の人生を振り返り、數(shù)え切れないほどの裏切りにあってきたと指摘した。寫真は樸大統(tǒng)領の中國語版自伝。
2016年10月30日、中國國営新華社通信傘下の「環(huán)球雑誌」の副編集長、劉洪(リウ?ホン)氏が開設したウィーチャット(微信)公式アカウント「牛弾琴」は、韓國の樸槿恵(パク?クネ)大統(tǒng)領の人生を振り返り、數(shù)え切れないほどの裏切りにあってきたと指摘した。以下はその內(nèi)容。
樸槿恵大統(tǒng)領は哀れだと思うこともある。早くに母親を失い、その後に父親も失い、弟や妹とも反目。家庭も子どももなく、まさしく「國に嫁いだ女性」だからだ。
だが「可哀想に見える人には自業(yè)自得なところがある」とも言われる。在任中の業(yè)績も芳しくなく、北朝鮮問題も処理できず、中國とも反目し、親友による國政介入問題まで現(xiàn)れてしまった。この不適任な大統(tǒng)領は直ちにその職から離れるべきだろう。
數(shù)え切れない裏切りに遭ってきた樸槿恵大統(tǒng)領は、韓國國民を裏切ってしまった?!干恧槌訾郡丹印工螛闶悉颉⑼扭味虐子鹗悉洗韦韦瑜Δ嗣瑜い皮い?。
物語は1974年8月15日から始まる。その日、樸槿恵氏の母親である陸英修氏は北朝鮮の工作員に暗殺された?!府敃r、テレビでは母親が殺害される場面が繰り返し流されていた。メディアが母の死を連続ドラマのように伝えるのを受け入れることは、とても殘酷なことだった」。樸氏は當時をこう回顧している。
このつらい時期に、仏教?キリスト教?天道教を総合した新宗教「永世教」の開祖、崔太敏(チェ?テミン)牧師が現(xiàn)れた。宗教活動は自由なものだが、この創(chuàng)意と自由は時として、多くの國では邪教と稱される。
崔太敏氏はファーストレディーを代行していた樸槿恵氏を「救國女性奉仕団」の名譽総裁に據(jù)え、自身は総裁として名聲を得た。自らを「太子殿下」と稱し、その職務と教派を利用して財を成した。
樸槿恵氏の父親である樸正煕(パク?チョンヒ)大統(tǒng)領(當時)は、中央情報部長だった金載圭氏の報告を受け、金氏に調(diào)査を命じた。だが最終的には樸槿恵氏の支持と証拠不足により、崔太敏氏が司法制裁を受けることはなかった。
樸槿恵氏の介入により金載圭氏は樸正煕大統(tǒng)領の信頼を失った。晩餐會で、叱責された金氏は大統(tǒng)領を殺害した。
「あまりに大きな衝撃を受けると、人は涙すら出ないと聞いていた。その夜、私はそのことを理解した。全身の感覚が徐々になくなり、めまいを起こさせるような夢の中に身を置いている感じだった」
両親を失った樸槿恵氏と弟妹は、青瓦臺(大統(tǒng)領府)を離れた。樸正煕氏に対する誹謗流言が勢いを増す中、樸槿恵氏は悲しみの中で父親の名譽回復のための事業(yè)を開始した。
樸槿恵氏はエレベーターの中で父親の部下にあいさつしたが、終始無視されるということもあったという。「口と心が裏表で、自身の利益のために裏切りを選ぶ人を數(shù)多く見てきた」「父親への裏切りは止むことなく、何もせずただ傍観することはもはやできなかった」と樸氏は語っている。
そうした時期に、崔太敏氏はまるで「黒衣の騎士」であるかのように最も孤獨な樸槿恵氏を支え、苦難における啓発と世話を通じて、樸氏の「指導者」となっていった。
1921年生まれの崔太敏氏はもともと問題のある人物だった。僧侶から牧師へと転身し、6回結(jié)婚。樸槿恵氏と男女の関係にあったとするうわさまで出回った。
數(shù)十年後の2006年5月20日、樸槿恵氏は統(tǒng)一地方選挙の支援遊説中に、カッターナイフ襲撃事件に遭遇し、右耳下から顎にかけて傷を負い、60針を縫う3時間もの手術を受けた。すでに世を去っていた崔太敏氏に代わり、樸氏に付き添った「身內(nèi)」が、崔氏の五女の順実氏だった。順実氏は、樸氏の崔太敏氏に対する信頼を受け継いだ。
樸槿恵氏が実妹の樸槿令(パク?クンリョン)氏と疎遠である一方で、崔順実(チェ?スンシル)氏とは実の姉妹のようであったことは公然の秘密だ。
樸槿恵氏は最も信頼する崔順実氏に演説資料を事前に漏らし、崔氏から意見や感想を受けるまでになった。樸氏が日本の特使団と面談する際、「日本側(cè)が敏感な問題に言及したら、無言のまま微笑で応じる」などと、振る舞い方の指南を事前に受けることもあったという。
「もらったら返すのが禮儀」という言葉がある。樸槿恵氏は恩に感謝しそれに報いようとする人でもある。
杜白羽氏は次のように記している。
2013年4月、崔順実氏の娘である鄭ユラ氏が馬術の試合で好成績を収めることができなかった。これを受け、樸槿恵氏は擔當者たちを「悪い人たち」と呼び、更迭を指示した。
2014年には日本の産経新聞が、樸槿恵氏がセウォル號沈沒當日に崔順実氏の元夫で自身の秘書室長を務めていたチョン?ユンフェ氏と密會していたと報じている。
樸槿恵氏の(1979年の樸正煕大統(tǒng)領暗殺事件から97年末に政界に出てくるまでの)18年間の長い隠遁生活を知らずして、今日の樸氏を理解することはできない。「絶望は私を鍛えた」と語る樸氏は、この隠遁期にごく少數(shù)の親友と関係を維持していた。
崔順実氏に精神面で依存していた樸槿恵氏は、崔氏の問題が浮上するに至ると、かばうことを否定したばかりか、世論をこうした疑惑から改憲に向かわせようとさえした。
韓國國民を怒らせているのは、樸槿恵氏が行ってきた政治、安全保障、外交、対北、経済など多くの政策が、背後で公職に就いていない人物に操られていたということだ。
樸槿恵氏が長年の知人である崔順実氏に演説の草稿や政府の內(nèi)部資料を渡していた問題で、調(diào)べを進めている検察は10月29日、大統(tǒng)領府高官らに対する強制捜査に踏み切った。韓國國內(nèi)では樸氏に退陣を求める抗議集會が行われている。
韓國の現(xiàn)代史において、優(yōu)秀の美を飾ることができた大統(tǒng)領はほとんどいない。樸正煕氏は暗殺され、金泳三(キム?ヨンサム)氏、金大中(キム?デジュン)氏、李明博(イ?ミョンバク)氏も親族による不正事件で謝罪することとなった。不正蓄財や収賄容疑により退任後に逮捕された盧武鉉(ノ?ムヒョン)氏は2009年に巖から飛び降りて世を去っている。
樸槿恵大統(tǒng)領の結(jié)末はどのようなものになるのだろうか。(翻訳?編集/柳川)
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