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18日、中國(guó)網(wǎng)は、「戦後11萬(wàn)人の日本の女性は、なぜ中國(guó)に嫁いだのか」と題する記事を掲載した。寫真は旅順の関東軍司令部跡地。
2016年1月18日、中國(guó)網(wǎng)は、「戦後11萬(wàn)人の日本の女性は、なぜ中國(guó)に嫁いだのか」と題する記事を掲載した。
記事は、「1945年8月の関東軍の敗戦で難民となった日本人が130萬(wàn)人に達(dá)し、恐怖と飢餓の問(wèn)題を解決するため、11萬(wàn)人の女性が中國(guó)人男性と結(jié)婚した。その後、中國(guó)で生活していた日本人の中には祖國(guó)に帰る者たちも続々と現(xiàn)れたが、特に中國(guó)人と結(jié)婚した日本人女性の多くは中國(guó)にとどまった」とし、その中の一人である浩代金子という女性を紹介している。
浩代金子は1940年初め、高校を卒業(yè)後、未來(lái)の夫と共に朝鮮へ移った。しかし、夫は朝鮮で戦死し、子どもは行方不明となった。戦亂の中で金子は中國(guó)の延吉へ逃れ、牡丹江駅憲兵小隊(duì)長(zhǎng)の男性と再婚した。ところが、金子の2番目の夫も、1945年8月にソ連軍との戦闘の中で死亡した。中國(guó)に親戚がいなかった金子は、あちこちを逃げ回った。そして、3番目の夫である中國(guó)人と再々婚した。夫の家族や親戚は、やっと嫁が見つかったと言ってよく面倒を見てくれた。実際、當(dāng)時(shí)は多くの國(guó)民黨の兵士が知り合いの、あるいは戀愛(ài)関係にある日本人女性をかくまっていた。
こうした中國(guó)に殘った女性の多くは、中國(guó)で生涯を過(guò)ごした。彼女たちの子孫の中には、日本に帰ったり、日本で仕事をしたり、また日中友好のために両國(guó)の高官の往來(lái)に大きく貢獻(xiàn)した人もいるという。
この報(bào)道に、中國(guó)のネットユーザーからは、「そんなに多かったのか」「どうりで東北に裏切り者が多いわけだ」「日本の男が殘ってなかったからだろう」「日本人妻はやっぱりいいよな」といったコメントのほか、「庶民にはどうしようもなかった時(shí)代」「戦爭(zhēng)こそが間違いだったんだ」「戦爭(zhēng)の動(dòng)亂の中で、割を食うのはいつも庶民だよ」「當(dāng)時(shí)の中國(guó)人は寛容だったんだな。戦爭(zhēng)は彼らによるものではなかった。だから二つの敵対した人々が一緒にいられたんだ。中國(guó)人は殘された日本人に無(wú)差別に報(bào)復(fù)はしなかった。やろうと思えばできただろうがしなかった?,F(xiàn)在の人々にもよく考えてほしい」といったコメントが寄せられている。(翻訳?編集/北田)
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