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安保法案をめぐってさまざまな意見(jiàn)が飛び交い、「平和」の意味が改めて問(wèn)われている。威海市職業(yè)技術(shù)學(xué)院の何倩さんの作文には、あまり知られることのない戦爭(zhēng)當(dāng)時(shí)の日本人と中國(guó)人の交流、平和への思いが記されている。
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安保法案をめぐってさまざまな意見(jiàn)が飛び交い、「平和」の意味が改めて問(wèn)われている。威海市職業(yè)技術(shù)學(xué)院の何倩さんの作文には、あまり知られることのない戦爭(zhēng)當(dāng)時(shí)の日本人と中國(guó)人の交流、平和への思いが記されている。
私が子どもの時(shí)、おばあさんはいつも若い時(shí)のいろいろなことを話してくれました。私がいつも真面目に聞いていたのは、おばあさんの物語(yǔ)が本當(dāng)におもしろかったからです。おばあさんは「あの時(shí)、私は17歳で、お母さんと一緒に秦皇島で暮らしていた」と言いました。その時(shí)期、中國(guó)には日本人がいっぱいいました。あの誰(shuí)でも知っている戦爭(zhēng)があったからです。中國(guó)人にとって忘れられない戦爭(zhēng)でした。
戦爭(zhēng)の時(shí)、中國(guó)には日本人の軍人も大勢(shì)いれば、軍人の家族も大勢(shì)暮らしていました。おばあさんが住んでいたアパートには日本人が多かったそうです。おばあさんは日本人の女性がとてもきれいで、優(yōu)しかったと言いました。おばあさんととても仲の良い友達(dá)になった日本人女性がいました。彼女はとても賢く、結(jié)った髪は美しかったそうです。いつも、おいしい食べ物を作っておばあさんにくれたり、おばあさんに化粧を教えてもくれたそうです。彼女たちはおばあさんに日本語(yǔ)を教え、おばあさんも彼女たちに中國(guó)語(yǔ)を教えました。お互いに心から信頼できる友達(dá)になりました。親しい雰囲気の中で、おばあさんは日本人と一緒にずっと何年も助け合って生活していました。
そんなある日、戦爭(zhēng)がやっと終わりました。中國(guó)に住んでいた日本人たちは日本へ帰らなければなりませんでした。おばあさんにとって、それはうれしいことでもあり、また悲しいことでもありました。友達(dá)と離れ離れになってしまうからです。もしかしたら、一生會(huì)うことができないかもしれません。しかし、仕方がありませんでした。おばあさんに化粧を教えたことがある女性は帰って行く前に、おばあさんにくしを一つ記念にくれたそうです。それから、おばあさんはずっとそのくしを身に付けています。おばあさんはくしを見(jiàn)るたびに、「私の友達(dá)たち、お元?dú)荬扦工俊工泉?dú)り言を言います。そして、時(shí)々習(xí)った日本語(yǔ)も教えてくれました。私はとても感動(dòng)しました。そして、日本人や日本語(yǔ)などが好きになり、日本語(yǔ)の勉強(qiáng)を始めました。
今、中國(guó)と日本の関係が厳しくなっているニュースが多いです。そんなニュースを聞くと、おばあさんの物語(yǔ)を思い出します。昔は戦爭(zhēng)があっても、中國(guó)人は日本人と友好関係ができました。今は戦爭(zhēng)がない平和な時(shí)なのに、どうして友好関係ができないのでしょうか。両國(guó)にとって一番大切なのはお互いに理解を増やすことだと思います。私たちは両國(guó)が平和で、友好的に交流できることを楽しみにしています。なぜならば、國(guó)民にとって何より安心なのは、平和的な友好の時(shí)代に暮らすことができることだからです。(編集/北田)
※本文は、第二回中國(guó)人の日本語(yǔ)作文コンクール受賞作品集「壁を取り除きたい」(段躍中編、日本僑報(bào)社、2006年)より、何倩さん(威海市職業(yè)技術(shù)學(xué)院)の作品「おばあさんの物語(yǔ)」を編集したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報(bào)社の許可を得て掲載しています。
日本僑報(bào)社
2015/6/23
日本僑報(bào)社
2015/5/2
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